文明が現代ほど急激に進化し、繁栄している時代はない。しかし、世界の実情は、貧富の格差は覆いがたく、テロや民族紛争ばかりか、暴力や自殺・他殺などが絶えず、人間関係の亀裂は深い。閉塞の壁は厚く、心の響き合う和の世界の実現がどんなに困難であるかを知らされる。人間同士が認め合え、尊重できるような地平がどうすれば開けるのか。一人の存在の意味が、切実に問われている。
親鸞に「〈十方衆生〉」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり」『真宗聖典』521頁)との言葉がある。あらゆる人びとの生き様が、外側の「かれら」ではなく、いのちを共感する「われら」として受けとめられているのである。このような、われらの世界が開かれてくる原点はどこにあるのか。
親鸞がつねづね語っておられた、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』・『真宗聖典』640頁)との言葉が、響いてくる。
いま、この世界は、老少男女を問わず、「居場所」の見いだせない深刻な問題を抱えている。たしかに、努力によってそれなりの居場所を獲得することができても…、人間の究極の居場所は何か。何の力や権威がなくとも、はだか一貫の人間が、たとえ社会生活から無用と貶められ、疎外されようとも、存在自身が全面的に認められ、人間であることの意味を見失わない、そのような「居場所」があるのか。現代の切迫した問いである。
「ひとえに親鸞一人がためなりけり」との言葉は、どのような情況にあろうとも、一人の人間が、仏の真実の願いにふれて、存在の意味を感得できた表白として伝わるが、親鸞のこの言葉が、自分自身のこととして受けとめられたとき、人間として存在することにはじめて合掌(アンジャリ)できるのではないか。
『アンジャリ第8号』(親鸞仏教センター)から・中津功(親鸞仏教センター嘱託)
『真宗の生活 2006年(6月)』
※『真宗の生活2006年版』掲載時のまま記載しています。