『恵信尼消息』を拝して
廣瀬 杲
(大谷大学名誉教授)

聖典としての『恵信尼消息』

『恵信尼消息』というものにつきましては、みなさま方、ずいぶんと深いご了解を持っておいでになろうかと思います。『恵信尼書簡』とか、あるいは『恵信尼文書』とも呼ばれております、いわゆる親鸞聖人の奥さまの恵信尼さまが、お嬢さまであります京都にお住まいの覚信尼さまにあてたわずか10通ほどのお書きもの、お手紙類です。

しかもそれは、建長7、8年(1255、1256)というころから始まって、恵信尼さまがお亡くなりになるその年までと言ってもいいあいだのお手紙です。このお手紙は特に近代、現代の真宗の歴史の研究、あるいは親鸞聖人の実像を探っていこうとする、そういう研究のなかでは、非常に大きな意味を持つと考えられていますし、またそのとおりだと思います。

例えば、親鸞聖人というお方が、公のこととしてではない限りは、ほとんど私事をおっしゃらないということがありまして、結果的に、親鸞聖人は、どういうお方なのかということを推し量っていく手掛かりがないというのが、親鸞聖人の実像を探っていこうとする先生方の苦しみであり、いら立ちであろうかと思います。

そういうなかで大正10年(1921)、この『恵信尼書簡』が発見されました。西本願寺のお蔵のなかから、鷲尾教導という先生が見つけてくださったわけです。それによって一挙に、いままでわからなかった親鸞聖人のお姿、比叡山でのご修行、あるいは越後でのご生活、その他のいろいろなことがわかってきたといわれているのです。

ところで私は、そこで考えさせられるのです。考えさせられるというのは、そういうことについての確かめをしてくださいます先生方のご意見を聞いておりまして、「親鸞は自分のことについては、ほとんどお語りにならなかった。だからして、親鸞の実像というものはわかりにくいのだ」というお言葉、たしかにそうだと思います。思いますけれども、私はもう少し視点を変えるべきではないかと、いつも思っているのです。

それは何かと申しますと、私事を常に語らなかった、そのこと自体は無意味なのかということです。私はそうは思わないのです。語らないというところに、何を聞き取っていくかということが、私たちにとって1番大事な問題だと思います。書いていないものは、ないものだ。書いてあるものは、あるものだ。この発想でいけば、おそらく親鸞聖人の研究といいましても、ついにどこかで行き詰まりがくるに違いないと思います。

近代、現代の歴史研究ということによって、明らかにされてくる親鸞研究というものは、たしかに素晴らしいものでありますし、そのなかで『恵信尼消息』といわれている文書が、史料として大きな役割を果たしているということもわかっております。そういうなかで、そのお手紙類を見て、そこに親鸞の実像が見えてきた、その手掛かりとして、『恵信尼消息』というものが非常に大きな意味を持っているのだというならば、かなりこれは問題のある考え方ではないでしょうか。

私は「『恵信尼消息』について」とは、講題を出しておりません。その講題では、私が本当にお話ししたい内容を言い当てていないということになると思います。

みなさま方は、「『恵信尼消息』を拝して」ならば、敬語を使っただけであって、本当は「ついて」ということだろうとお考えになるかもわかりませんけれど、それは私にとって困るのです。『恵信尼消息』というお手紙類、それは、単に近代の歴史研究のなかで親鸞像が見えてくる、その手助けを積極的にしてくれるのだという視点では、私は納得がいかないのです。

「拝して」というのは、決して敬語を使っただけではないのです。本当に『恵信尼消息』は、単なる1つの歴史研究のなかでの史料にとどまらず、むしろ、そういう視点を撤回せしめていくような大きな意味を持っている。

結論のほうから言いますと、『恵信尼消息』は、全体が私にとって拝まれるべきお聖教としていただかなくてはならないほど、大きな意味を持っているのではないのかということを申しあげたいわけです。そういう問題を提起しておりますのは、私自身の中に、はっきりした課題があるからです。

「宗祖としての親鸞」とは

私にとって1つ、どうしても解けないといいますか、どうしてもはっきりしない問題があったのです。あったというか、こんにちもあるのです。それは、やはり「宗祖としての親鸞聖人」とは、どういうお方なのかということです。

しかし、それが御遠忌の基本理念として示されるように、表に出れば出るほど、「宗祖としての親鸞聖人」とは、いったいどのようなお方であり、どのようなことをわれわれに明らかにしてくださったお方なのかという問いを立ててみますと、結局、宗祖ということばも、1つの飾り言葉に、私たちはしてしまっているのではないのだろうか、という思いがしてならないのです。

宗祖に遇えなくして、宗祖を語るということの欺瞞、嘘です。それを平気でやっているのが私たちなのではないだろうかと思います。いったい、宗祖としての親鸞聖人に、どうしたら遇えるだろうか。おそらく私はこの問いのなかで4、50年、あっぷあっぷしてきたのではないか、とさえ思います。

宗祖としての親鸞聖人を明らかにしてくださった、親鸞聖人入滅以降の歴史の語りかけというのが、あったのだろうか、なかったのだろうか。あるいは、聞き落としてしまったのか、見落としてきたのだろうかという問いを立ててみますと、やはりそこには、いくつかのあり方をもって私たちに教えてくださっていることがあると思います。

本願寺の聖人 親鸞

その概要を少し申しあげておきます。まず第1に、私たちに親鸞聖人というお方を真正面から、これが親鸞聖人なのですよと語りかけてくださる、真像を問うてきた最も積極的な、しっかりとした枠組みを持っていた親鸞聖人の伝記というものがございます。

『御伝鈔』です。覚如上人が一代(いちだい)を賭けた『御伝鈔』というものは、われわれにどういう親鸞像を教えてくださっているのかと言いますと、これは解説する必要もないほど、はっきりしているのです。「本願寺の聖人、親鸞」を明らかにしている、それ以外ではない。

私は善いか、悪いかと言っているのではありません。そうではなくて、消しがたい事実を、教団が担っているという1つの視点ではないかと思うのです。最初の書き出しが、「それ、聖人の俗姓は藤原氏」ということから始まって、藤原一家の歴史をずっと過去を見渡していくかたちで語って、そのなかに身を置いて生まれたのが親鸞というお方であると位置付けられてあります。

『御伝鈔』の出発は決して、仏者親鸞という書き出しではない。いわゆる、ときの権力を左右するであろう位置にあった藤原一家、この藤原一家の流れのなかに身を置いていたのが親鸞であるという書き出しから始まっているわけです。1番最初がそこから始まったということは、親鸞聖人の真像をわれわれに示してくださる方向は、世俗にあったならば、いわゆる、ときの権力を左右することのできるような血筋のなかで生まれたのだろうと、そういうことを強調なさっているように見えます。

そして、そのことはまた、真宗教団と言っております私たちにとりまして、大ざっぱに申しますと、やはり本願寺の聖人という方を御開山と仰ぐような教団であることだけは、これは有無を言わさないのではないでしょうか。

これが、はっきりしていけばしていくほど、教団とは何かという問いを徹底していくように、われわれには迫ってきていると言わざるをえなくなります。これが私は、『御伝鈔』というかたちで、私たちに親鸞聖人の姿を示してくださった、その覚如上人の営みであり、それは教団形成のうえでは非常に大きな意味を、こんにちでも担っていると言わざるをえないと思うのです。

史上の親鸞

近代の歴史観と申しますか、視点というものから、親鸞という実像を問うていこうとすると、『恵信尼消息』が大正10年に発見されたと申しましたけれども、大正11年(1922)に中沢見明という先生が、『史上の親鸞』というお書きものを発表なさいました。これは当時、ずいぶんインパクトを与えたお書きもののようであります。
これはある意味では、『御伝鈔』を相手取って、その虚構性というものを暴き出すかたちで『史上の親鸞』、歴史上に生きていた親鸞像をはっきりさせていこうという営みです。こんにちまで至っております親鸞の実像を探る歴史研究であろうと思います。

歴史のうえに登場してくる親鸞像というものを探っていくということは、たしかに素晴らしい研究、近代的な研究という意味で、本当に実証性を持ったものだということはわかります。しかし、その揚げ句に、どういう親鸞が生まれてくるかと言いますと、1つの具体的な言葉をとおして申しあげます。

大正のころ、『史上の親鸞』という、そもそもの題名が、非常によく親鸞研究の1つのあり方を私たちに示してくださっているとおり、その研究のなかから、親鸞という存在はいなかったのではないだろうか、架空の存在だったのではないだろうか、親鸞聖人抹殺ということが、充分な論拠を持ってではありませんけれども、論議のなかで語られたということがあります。

私はそのことを、そう軽くは感ずるわけにはいかないと思うのです。なぜならば、親鸞聖人の実像を探っていくその研究姿勢のなかから、親鸞抹殺ということまでやってのけることのできる冷酷さというものが、そのなかを貫いている。

とすると、近代の歴史研究の営みのもとに明らかにされてくる親鸞像は、たしかにわれわれが、ある意味では待望していた親鸞の姿が浮かんでくるということになろうかと思いますけれども、その質としてあるものは、ときによりますと、いろいろの史料が充分に役割を果たさないとなると、親鸞という存在は地上にいなかった人ではないかということで、切って捨てられる。親鸞聖人を殺してしまうということを平気でやってのけるような、ある意味の冷たさというものが、実は親鸞聖人の研究ということのなかに、私は見取っていかなくてはならないことではないかと思うのです。

「そんなことを言っていたら親鸞聖人の実像は、ちっともはっきりしてこないじゃないか」とおっしゃるかもわかりませんけれども、実像をはっきりさせていこうとするとき、私たちはどういう実像を明らかにしたいのでしょうか。

今2つの視点を申しましたが、1つは『御伝鈔』が示している視点、もう1つは、近代研究といわれている歴史の研究のなかから明らかにしていこうとする実像としての親鸞像という研究。この親鸞像は「人間親鸞」といわれます。しかし、これらの親鸞像が、ついに私たちに明らかにしえないもの、それが、宗祖親鸞聖人とはあなた方にとってどういうお方として、うなずかれているのでしょうかという問い掛けだろうと思うのです。

この2つの親鸞像を超えなくては、宗祖というお言葉で仰ぐところの親鸞聖人は明らかにならないということは、ある意味で共通の認識を持つことができるのではないかと思います。

先にも申しましたが、私はその問い掛けに、困り抜いているのです。結局、宗祖として仰ぐ親鸞聖人には、1度もお遇いしていなかったのではないかと思うのです。

もう1つの視点

『御伝鈔』と、それから近代真宗史の研究のなかから生まれてくる親鸞実像の探究と、2つ申しました。もう1つあると思うのです。750年の伝統のなかで、今の2つとは違うかたちで、親鸞像を思い起こさせてくれるような伝達があると思います。伝説の親鸞という視点が1つあったと思います。

例えば、越後に親鸞聖人にちなんだ七不思議、「越後七不思議」というものがあります。これは、私はずいぶん大切なことを、はっきりと言葉にせずして語ってくださっていると思うのです。伝説ですから、そういう事実があったとは申しません。しかしそれは、先の2つの視点というもの以上に、親鸞聖人の実像を、われわれに考えさせてくれることだけは間違いないと思います。

「逆さ竹」というお話があります。親鸞聖人が越後から越中、あのあたりを歩きながら、教法を広めていこうとなさった。ところが誰も、その話を聞いてくれない。親鸞聖人もほとほと疲れ果てたのでしょうか、途中で腰を下ろして、つえに突いていた竹の棒を前に置いて、「此里に親の死したる子はなきか 御法の風になびく人なし」という歌を歌われた。竹のつえは、太い根のほうを手に持ちます。自生の竹とは逆さになっているわけです。それで、そのつえをとんと突いたら、その竹のつえから、枝葉が出て、茂っていった。だから、葉っぱが全部逆さまに付いてくるのだそうです。それで「逆さ竹」と言うのです。

親鸞聖人というお方は、越後で何をしていたのかよくわからないと言われます。流罪に遇った、罪人になったというけれども、どういう暮らしをしていたのかわからない。確かにそのようです。しかし同時に、親鸞聖人は越後では、布教、教化ということは一切(いっさい)なさらなかったのではないかという見解もあるわけです。

ところが、それに対して、親鸞聖人の御在世のころから伝統されてきた「逆さ竹」の伝説は、親鸞聖人の、教法宣布の歩みの至難さ、困難さを、われわれにはっきりと示してくださるわけです。生き生きとした親鸞像というものが、ここには見えるわけです。その地方で生きていた人々の実感したものを伝えている、伝説の親鸞というものは、どれほど理性・知性で固めた説明では、どうしても手の及ばないものを、私たちに語りかけてくださっているのではないのでしょうか。

決して私は、伝説がいいとは言っていません。ただ伝説の親鸞というかたちで伝えられている親鸞像は、やがてもう1つの新たな親鸞像を見いださなければならないということを、われわれに予告していてくれるのではないかと思うわけであります。