2000(平成12)年 真宗の生活 10月 【念仏】
<ただ念仏のみぞまこと>
念仏とは、字のとおり仏を念ずること、もつと具体的にいいますと、口で南無阿弥陀仏を称えることです。さらに浄土真宗の教えるところでは、南無阿弥陀仏は私たちの思いや考えをこえて私たちにはたらきかけてくださる阿弥陀仏の呼ぴかけです。そこには当然、私たちを一人残らず仏の国に生まれさせようという阿弥陀仏の大きな願いがあるのです。
つまり、私の口から出た南無阿弥陀仏なのですが、実はすで尊い阿弥陀仏のはたらきがあればこその出来事なのです。どのようなはたらきかけかといいますと、独り善がりの自分の考えにこり固まり、自分の思いの世界が絶対だとしている心が砕かれてることです。自分中心の世界に閉じこもっている闇に、阿弥陀仏の智慧の光が当たり、開かれた明るい世界に導きだされるのです。
暗闇の中、手さぐりで拾った紙きれを紙幣だと思い、しっかりと握りしめたところ、突然明かりがともり、他の人には見られないように隠れて、そっと見てみれば借用書だったというようなことにたとえられましよう。暗がりで紙幣だと思っていたものが、明るみに出て借用書だったとわかれば、もう握って放さないという執着から解き放たれます。
さらにいいかえますと、南無阿弥陀仏は仏の智慧のはたらきなのです。それはまた「まことあることなき」仮に対する真実(まこと)のはたらきなのです。南無阿弥陀仏に遇うことによって、闇の中で握って放さない自分の思いが絶対だとしている根性が仮だったとわかるのです。このことを親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまこと」と教えてくださっているのです。
『真宗の生活 2000年 10月』【念仏】「ただ念仏のみぞまこと」