法蔵菩薩
- 【原文】
法 蔵 菩 薩 因 位 時
在 世 自 在 王 仏 所
【読み方】
法蔵菩薩の因位の時、
世自在王仏の所にましまして、
この二句からあと、しばらく、阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたときのことが述べられます。
少しわずらわしいですが、はじめに「正信偈」の段落についてふれておこうと思います。
「法蔵菩薩因位時」からの四十二句は、親鸞聖人が、お経にもとづいて阿弥陀如来の本願のことを讃えておられる部分で、「依経段」といわれています。そして、四十三句目の「印度西天之論家」からあとは、インド・中国・日本に出られた七人の高僧、お一人お一人がお示しになった本願についてのご解釈の要点を掲げて讃嘆しておられる部分で、「依釈段」といわれているところです。
はじめの「依経段」のうち、「法蔵菩薩因位時」から「必至滅度願成就」までの十八句は「弥陀章」と呼ばれ、ここに阿弥陀如来の誓いと願いのことが述べられているのです。そして、次の「如来所以興出世」から三十八句目の「是人名分陀利華」までを「釈迦章」といい、釈尊がこの世間に出られた意味が明らかにされているのです。そのあとの「弥陀仏本願念仏」から四十二句目の「難中之難無過斯」までの四句は、「依経段」の結びとなる「結誡」といわれている部分です。
今回からしばらく、「依経段」の「弥陀章」について学ぶことになるわけです。
さて、「法蔵菩薩」についてですが、「菩薩」というのは、人びとを導き、救うために仏になろうとしておられる人のことです。つまり、仏になられる前の段階をいいます。世間の無数の人びとは、真実に気づかず、自我にこだわっています。そのために、迷いを重ね、誤った生き方をしながら、それが正しいと思い込んでいます。その結果、人びとは悩み苦しまなければならないのです。菩薩は、みずから早く覚りを得て仏になって、そのように悩み苦しまなければならない、すべての人びとを救いたいと願われるのです。
菩薩がこのような広大な願いをもって、仏になるための修行をしておられる段階を「因位」といいます。そして、「因位」のときの菩薩の行が完成し、願いがかなえられて仏になられた、その仏としての地位を「果位」というのです。
もともと、「菩薩」というのは、仏になられるまでの釈尊のことだったのです。釈尊の教導を受けた人びとは、釈尊がたまたま仏になられて、自分たちを導いてくださったのだとは、受けとめませんでした。そうではなくて、まず自分たちを導いてやりたいという願いを懐いてくださって、その願いを実現させるために、途方もない辛苦の末に、仏になってくださったのだと受けとめたのです。そして、その恩徳に感謝の誠を尽くしたのです。やがて、そのような、人類を救いたいという願いが、仏教の根本精神として確かめられ、「菩薩」の思想は大きく発展して、釈尊お一人に限ることはなくなったのです。
『大無量寿経』によりますと、遠い遠い昔、阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたとき、ひたすら、人びとを救いたいという願いから、「世自在王仏」という名の仏に仕えて教えをお受けになられた、と説かれています。法蔵菩薩も、たまたま阿弥陀仏になられたのではなくて、過去と現在と未来の人びとを救いたいと願われ、菩薩としての行を尽くして、阿弥陀仏になってくださったというわけです。
『歎異抄』に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という親鸞聖人のお言葉が伝えられています(聖典640頁)。「阿弥陀仏が菩薩であられたとき、五劫という途方もなく永い時間をかけて考え抜いた末、おこしてくださった本願のことを、つらつら考えてみると、それは実は、私(親鸞)一人をたすけようとしてくださった願いとしか思えない」と、聖人はしみじみと述べておられるのです。
なお、「法蔵」は、仏法を蔵めているという意味、「世自在王」とは、智慧と慈悲をそなえた王のように世間を自由自在に救うという意味です。また、偈文の「在」を親鸞聖人は「在して」と読んでおられるのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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