正信偈の教え-みんなの偈-

法蔵菩薩の願い

【原文】
法 蔵 菩 薩 因 位 時
在 世 自 在 王 仏 所

【読み方】
法蔵菩薩ほうぞうぼさつ因位いんにの時、
世自在王仏せじざいおうぶつみもとにましまして、


 『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』には、釈尊が、阿難あなんという仏弟子に語って聞かせるというかたちで、法蔵菩薩のことが詳しく紹介されています。そして広く人類を救いたいという願いをおこされた菩薩の徳が讃えられるのです(聖典6頁~)。そのあらましは、次の通りです。
 ある日、阿難尊者そんじゃがお見受けしたところ、釈尊は、いつになく、すがすがしいご様子で、歓びにあふれて、輝いておられるように思われたのです。そこで、阿難尊者は、そのわけをお尋ねしたのです。すると釈尊はお告げになりました。「きみは、とてもよいことを尋ねた。私がこの世に出現したのは、教えを説いて人びとを救い、真実の利益りやくを与えるためなのだ。私が歓びにあふれているのは、人びとに真実の利益を明らかにする時がきたからなのだ」と。そして、法蔵菩薩のことをお説きになられたのです。
 遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏せじざいおうぶつという仏がおられました。その時、一人の国王がおられました。王は、その仏の教えをお聞きして、心からの喜びをいだかれたのです。そして、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになられたのです。王は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して修行者となり、法蔵と名告なのられました。これが法蔵菩薩です。
 法蔵菩薩は、諸仏の浄土がどのようにしてできたのか、それを教えていただきたいと、世自在王仏に願い出られました。そして、自分も、教えの通りに修行して浄土を建立こんりゅうしたいという決意を述べられたのです。世自在王仏は、菩薩の熱心な願いに応じて、二百十億という、ありとあらゆる仏の浄土の成り立ちと、それらの浄土にいる人びとのありさまをつぶさにお示しになったのです。
 法蔵菩薩は、それらの浄土のありさまを拝見された後、五劫ごこうという途方もなく永い期間にわたって思惟を重ねられ、この上にない優れた願いを発されたのです。すなわち、仏になって理想の浄土を実現するための願いを発されたのです。それが四十八項目からなる本願なのです。
 この本願の第十八の願では、自分が仏に成るとしても、自分が実現する浄土に、一切の人びとが心から生まれたいと願って、もし人びとが往生できないのであれば、自分は仏には成らないと誓われたのです。
 さらに、『大無量寿経』には、次のようなことも説かれています。阿難尊者は、釈尊にお尋ねするのです。「法蔵菩薩は、すでに仏に成っておられるのでしょうか、それとも、まだ仏に成っておられないのでしょうか」と。すると、釈尊はお答えになりました。「もうすでに仏に成っておられる。いま現に、西方の、ここから十万億の世界を越えた安楽浄土におられるのだ」と。つまり、法蔵菩薩の四十八願はすべて成就されて、阿弥陀仏に成られたということです。ついで、阿難尊者が「法蔵菩薩が阿弥陀仏になられてから、もうどれほどの時が過ぎたのでしょうか」とお尋ねすると、釈尊は、「おおよそ十劫の時が経過しているのだ」と、教えられたのです。
 このお話のなかに、「五劫」「十劫」という言葉がありましたが、「劫」は、時間の長さです。これには諸説が伝えられていますが、有名なのは次のような話です。
 横幅四十里、高さも四十里、奥行も四十里という大きな岩石があったとして(もちろん富士山よりも大きい)、その岩のそばを羽衣を身にまとった天女が百年(あるいは千年)に一度通りかかるのです。すると羽衣の袖がサッと岩にふれるのです。これを何度も何度も繰り返すと、岩が磨り減ります。この岩石が完全に摩滅してしまうのに要する時間よりも、さらに長い時間を一劫というのです。十劫はその十倍です。このような、とてつもなく長い時間のことが言われるのは、数量ではとらえきれない質の深さを表わそうとするからです。仏の慈悲の深さが、始まりと終わりを考える必要のないものであることを教えようとしていると思われるのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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