正信偈の教え-みんなの偈-

さらなる誓い

【原文】
五 劫 思 惟 之 摂 受
重 誓 名 声 聞 十 方

【読み方】
五劫ごこう、これを思惟しゆいして摂受しょうじゅす。
重ねてちかうらくは、名声みょうしょう十方じっぽうに聞こえんと。


 法蔵ほうぞう菩薩は、「たすかるはずのないぼんを何とかしてたすけたい」という願いをおこされました。そして、その願いを実現する手立てについて深く深く思案されたのでした。それは五劫という途方もない時間の永さによって表わされる深さの思案だったのです。そのことが「五劫、これを思惟して」と詠われているわけです。このような思案の上で、凡夫を救いたいという願いを四十八項目の誓願せいがんとして選ばれたのでした。それが「摂受」ということでありました。
 『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』によりますと、四十八の願いを立てられた法蔵菩薩は、その願いの一つ一つの内容を師の世自せじ在王仏ざいおうぶつに向かって申し述べられたのです。そして、この願いを何としても実現させたいと誓われたのです。さらに菩薩は、この誓いを明確にするために、世自在王仏のみもとで、重ねて偈頌げじゅを説いて誓いを立てられるのです。
 これが「重誓偈じゅうせいげ」といわれているうたです(聖典25頁)。またこの偈文げもんは、はじめに三つの大切な誓いが述べられていますので、「三誓偈さんせいげ」とも呼ばれています。
 その第一の誓いは、「私が発した願いがすべて成就しないのであれば、私は仏に成りません」という誓いでありました。ここには、一切の人びとをたすけたいという本願を必ず実現させようとする、法蔵菩薩の強い決意が表わされています。
 そして第二の誓いは、「悩み苦しむあらゆる人びとを救えないのであれば、私は仏に成りません」という誓いです。これは、いつでも、どこでも、苦悩のない人はいないので、その人びとの悩み苦しみを取り除いて、ほんとうの安らぎを与えたいという誓いなのです。
 第三の誓いは、「私の名声みょうしょうをあらゆるところに行き渡らせたいが、もし私の名が聞かれないことがあるならば、私は仏に成りません」という誓いです。ここに述べられている「名声」とは、「名号みょうごう」のことです。すなわち「南無阿弥陀仏」のことをいうのです。すべての人びとに「南無阿弥陀仏」を届けたいという誓いなのです。そして、「南無阿弥陀仏」を受け取らせることによって、生きていることを心の底から喜べない私たちに、真の喜びを与えたいと願っておられるのです。
 親鸞聖人は、この第三の誓いをとくに大切に受けとめられて、この「正信偈」に「重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと」と詠っておられるわけです。それは、この第三の誓いが、四十八願全体の中心となっていると受けとめられたからだと拝察されるのです。
 さきほど、「名声」というのは「名号」のことだと申しましたが、「名号」は「お名前」ということですから、「阿弥陀仏」という四文字が名号だと考えてしまいます。しかし、実はそうではなくて、これに「南無」を加えて、「南無阿弥陀仏」の六文字が、私たちに届けられているお名前なのです。「南無」は「信順しんじゅん」(信じて順う)ということですから、「阿弥陀仏を信じて順います」というのが「名号」だということになります。
 私たちには、いつも自分へのこだわりが付きまとっています。いつも自分の都合を優先させてしまいます。そのような私たちが信順するといっても、それは自分の都合のための信順ですから、まともな信順にはなりません。純粋な「南無」ではないわけです。いわば取り引きのようなものになってしまいます。そのために、そのような私をあわれんで、阿弥陀仏が、この私の都合が含まれていない「南無阿弥陀仏」を用意してくださって、その「南無阿弥陀仏」を、私が聞信する名号として届けてくださっているのです。
 こうして、親鸞聖人は、『大無量寿経』に説かれている釈尊の教えに基づいて、阿弥陀如来が「南無阿弥陀仏」という名号を私たちに施し与えてくださっていることを教えておられるのです。聖人は、「南無阿弥陀仏」がご自分のところに届けられていることを深く喜ばれ、届けられた「南無阿弥陀仏」を大切に受け取られたお方であると思うのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

< 前へ  第9回  次へ >