光明に遇う
- 【原文】
普 放 無 量 無 辺 光 無 碍 無 対 光 炎 王
清 浄 歓 喜 智 慧 光 不 断 難 思 無 称 光
超 日 月 光 照 塵 刹 一 切 群 生 蒙 光 照、
【読み方】
あまねく、 ・無量 、無辺光 ・無碍 ・無対 、光炎王
・清浄 ・歓喜 、智慧光 ・不断 ・難思 、無称光
超日 を放って、月光 を照らす。一切の塵刹 、群生 を光照 る。蒙 - 【原文】
引き続き、今回も十二種の
これらの光明の名前は、いずれも阿弥陀仏の
今回は、第九の「不断光」からです。これは、一刻も途絶えることなく、私どもを照らし続けてくださる阿弥陀仏の
阿弥陀仏の智慧の光明は常に輝いて絶えることがないので、阿弥陀仏のことを「不断光仏」ともお呼びする。この光を感じ取るために、絶えることのない信心によって往生するのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
第十の「難思光」は、
阿弥陀仏の
第十一は、「無称光」です。「称」は「はかる」という意味です。どのような方法によっても説明しきれない阿弥陀仏の智慧の輝きをいいます。これを『和讃』には、「
阿弥陀仏の光明は、あらゆる迷いから離れたものであるが、凡夫にはとてもそのありさまは説明できないので、阿弥陀仏を「無称光仏」ともお呼びする。悩みの多い凡夫を救うために、阿弥陀仏ご自身も、その光明によって仏に成られたので、すべての仏がこの光明の徳をほめておられると、述べておられるのです。
最後の第十二は、「超日月光」です。阿弥陀仏の智慧の光明が、日月の光を超えた光にたとえられているわけです。太陽の光は昼間に輝き、夜は照らしません。月の光は、夜は照らすけれども昼は輝きません。光のはたらきにかたよりがあるのです。さらに、どちらの光も、光の届かない影を作ってしまいます。阿弥陀仏の光明は、かたよりがなく、しかも届かないところがないのです。
これを『和讃』には、「光明
阿弥陀仏の智慧には、塵のようにちらばっているすべての世界を照らし出し、人びとの迷妄を打ち破って、人びとを輝かせる徳がそなわっていると、親鸞聖人は言っておられるのです。そして、その輝きを
それなのに私は、そのことに気づこうともしていないようです。自分の思いにのみこだわって、しかも私は自分の思いを正当化し、あえて智慧の光明に背を向けているわけです。そのような私のことを悲しく思って、何とか私が目覚められるよう、親鸞聖人は、この
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘