正信偈の教え-みんなの偈-

光明に遇う

【原文】
普 放 無 量 無 辺 光  無 碍 無 対 光 炎 王
清 浄 歓 喜 智 慧 光  不 断 難 思 無 称 光
超 日 月 光 照 塵 刹  一 切 群 生 蒙 光 照、

【読み方】
あまねく、無量むりょう無辺光むへんこう無碍むげ無対むたい光炎王こうえんのう
清浄しょうじょう歓喜かんぎ智慧光ちえこう不断ふだん難思なんし無称光むしょうこう
超日ちょうにち月光がっこうを放って、塵刹じんせつを照らす。一切の群生ぐんじょう光照こうしょうかぶる。


 引き続き、今回も十二種の光明こうみょうについて申し述べたいと思います。『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』には、阿弥陀仏の別の呼び名として、十二種の光の名が示されています。
 これらの光明の名前は、いずれも阿弥陀仏のすぐれた徳を表わしていますので、「正信偈」には、これらの光の名をあげて阿弥陀仏の徳が讃えられているのです。また親鸞聖人は、『和讃』にもこれらの徳を讃嘆しておられるのです。
 今回は、第九の「不断光」からです。これは、一刻も途絶えることなく、私どもを照らし続けてくださる阿弥陀仏の智慧ちえの光明のことをいいます。このような光明のことを『和讃』には、「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力もんこうりきのゆえなれば しん不断にて往生す」(聖典479頁)と詠ってあります。
 阿弥陀仏の智慧の光明は常に輝いて絶えることがないので、阿弥陀仏のことを「不断光仏」ともお呼びする。この光を感じ取るために、絶えることのない信心によって往生するのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
 第十の「難思光」は、凡夫ぼんぶの思いによっては、到底量り知ることのできない阿弥陀仏の智慧の光明のことです。『和讃』には、「仏光ぶっこう測量しきりょうなきゆえに 難思光仏となづけたり 諸仏は往生たんじつつ 弥陀の功徳をしょうせしむ」(聖典480頁)と詠われています。
 阿弥陀仏の智慧ちえの輝きは、誰も思い量ることができないので、阿弥陀仏を「難思光仏」とお呼びする。あらゆる仏が、凡夫の往生を讃嘆され、それを実現される阿弥陀仏の恩徳をほめ讃えておられると、説いてあるのです。
 第十一は、「無称光」です。「称」は「はかる」という意味です。どのような方法によっても説明しきれない阿弥陀仏の智慧の輝きをいいます。これを『和讃』には、「神光じんこう離相りそうをとかざれば 無称光仏となづけたり 因光いんこう成仏じょうぶつのひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり」(聖典480頁)と讃えてあります。
 阿弥陀仏の光明は、あらゆる迷いから離れたものであるが、凡夫にはとてもそのありさまは説明できないので、阿弥陀仏を「無称光仏」ともお呼びする。悩みの多い凡夫を救うために、阿弥陀仏ご自身も、その光明によって仏に成られたので、すべての仏がこの光明の徳をほめておられると、述べておられるのです。
 最後の第十二は、「超日月光」です。阿弥陀仏の智慧の光明が、日月の光を超えた光にたとえられているわけです。太陽の光は昼間に輝き、夜は照らしません。月の光は、夜は照らすけれども昼は輝きません。光のはたらきにかたよりがあるのです。さらに、どちらの光も、光の届かない影を作ってしまいます。阿弥陀仏の光明は、かたよりがなく、しかも届かないところがないのです。
 これを『和讃』には、「光明月日つきひ勝過しょうがして 超日月光となづけたり 釈迦嘆じてなおつきず 無等等むとうどうを帰命せよ」(聖典480頁)と讃嘆されています。阿弥陀仏の智慧の光明は、日月の光よりはるかに勝れているので、阿弥陀仏を「超日月光仏」とも申し上げる。釈尊ですらこの智慧の徳をほめ尽くしておられない。等しく並ぶもののない阿弥陀仏に帰命しようではないか、と勧めておられるのです。
 阿弥陀仏の智慧には、塵のようにちらばっているすべての世界を照らし出し、人びとの迷妄を打ち破って、人びとを輝かせる徳がそなわっていると、親鸞聖人は言っておられるのです。そして、その輝きをこうむっていない者は一人もいないと言っておられるのです。
 それなのに私は、そのことに気づこうともしていないようです。自分の思いにのみこだわって、しかも私は自分の思いを正当化し、あえて智慧の光明に背を向けているわけです。そのような私のことを悲しく思って、何とか私が目覚められるよう、親鸞聖人は、このうたによって教えてくださっていると思われるのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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