正信偈の教え-みんなの偈-

最後の依り処

【原文】
普 放 無 量 無 辺 光  無 碍 無 対 光 炎 王
清 浄 歓 喜 智 慧 光  不 断 難 思 無 称 光
超 日 月 光 照 塵 刹  一 切 群 生 蒙 光 照、

【読み方】
あまねく、無量むりょう無辺光むへんこう無碍むげ無対むたい光炎王こうえんのう
清浄しょうじょう歓喜かんぎ智慧光ちえこう不断ふだん難思なんし無称光むしょうこう
超日ちょうにち月光がっこうを放って、塵刹じんせつを照らす。一切の群生ぐんじょう光照こうしょうかぶる。


 前回に引き続き、十二種の光明こうみょうについて申し述べることとします。この十二光は、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』に阿弥陀仏の別の呼び名として示されているものです。これらの光明の名前は、いずれも阿弥陀仏のすぐれた徳を表わしています。
 前回は三番目の「無碍光」までご紹介いたしました。第四の「無対光」ですが、これは、対比するものがない光ということです。阿弥陀仏は、他の何ものとも比較のしようがない、勝れた智慧ちえの徳をそなえておられるのです。
 この徳について、親鸞聖人はまた、『和讃』に次のように讃えられています。「清浄しょうじょう光明こうみょうならびなし 遇斯光ぐしこうのゆえなれば 一切の業繋ごうけものぞこりぬ 畢竟依ひっきょうえ帰命きみょうせよ」(聖典479頁)と。
 清らかな智慧の光のはたらきは、これに並ぶものはなく、この光に遇うことによって、身勝手な一切の行いから起こって自分自身を悩ませるこだわりの心が取り除かれるのだから、人生の最後の最後の依り処である阿弥陀仏を頼りにしなさいと教えられています。「畢」も「竟」も、終わりという意味です。私たちは目先の価値にとらわれて、あてにならない物事をあてにして、それを依り処にして生きています。本当に最後の最後に依り処になるものを確かめられたならば、これほど安らかで歓びに満ちた人生はないと教えられているのです。
 第五の光は、「光炎王」(『大無量寿経』では「焔王光えんのうこう」)です。「炎」は、私たちの愚かさから起こるさまざまな迷いを焼き尽くすことをたとえたものです。阿弥陀仏の智慧の光明は、無知の暗闇を照らし、暗闇を暗闇でなくしてしまうはたらきがあるのです。『和讃』には、「仏光ぶっこう照曜しょうよう最第一さいだいいち 光炎王仏こうえんのうぶつとなづけたり 三塗さんず黒闇こくあんひらくなり 大応供だいおうぐ帰命きみょうせよ」(聖典479頁)と詠われています。
 阿弥陀仏の智慧の光の輝きは最高であるので、阿弥陀仏を「光炎王仏」ともお呼びする。仏の智慧の光は、われらの迷いの暗闇を打ち開いてくださるのだから、供養するのに最もふさわしいお方として敬おうではないかと、述べられているのです。
 第六は、「清浄光」です。貪りに支配される私どもの心のけがれに気づかせ、心が清らかになるように、はたらきかけてくださる智慧の光です。『和讃』には、「道光どうこう明朗みょうろう超絶ちょうぜつせり 清浄光仏ともうすなり ひとたび光照こうしょうかぶるもの 業垢ごうくをのぞき解脱げだつをう」(聖典479頁)と詠われています。
 本願の光は、他を超えて明るく輝いているので、阿弥陀仏を「清浄光仏」とも申し上げる。ひとたびこの光を身に受けたならば、心身の汚れは取り除かれ、あらゆるこだわりから解き放たれると、説いておられるのです。
 第七は、「歓喜光」です。慈しみとしてはたらく阿弥陀仏の智慧の光は、怒りや憎しみの深い私どもの心を和らげてくださるので、私どもの心は喜びに変わるのです。『和讃』には、「慈光じこうはるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 法喜ほうきをうとぞのべたまう 大安慰だいあんにを帰命せよ」(聖典479頁)と詠ってあります。
 阿弥陀仏の慈しみの光は、あらゆるところに向けられていて、この光のおよぶところでは、真実によって起こる喜びがあふれるといわれているので、最大の慰めとなる阿弥陀仏を頼みにしようと、呼びかけておられます。
 第八は、「智慧光」です。私どもは、真実に暗く、愚かで無知そのものです。そのために悩まなければならないことが多いのです。しかも、自分が無知であることにも、実は無知なのです。阿弥陀仏の智慧の輝きは、私どもに無知を知らせ、無知の闇を破ってくださるのです。これを『和讃』には、「無明むみょうあんするゆえ 智慧光仏となづけたり 一切諸仏しょぶつ三乗衆さんじょうしゅ ともに嘆誉たんよしたまえり」(聖典479頁)と讃嘆してあります。
 深い無知の闇を破ってくださるので、阿弥陀仏を「智慧光仏」ともお呼びする。一切の諸仏も諸菩薩も仏弟子も、こぞってこの智慧の光をほめ讃えておられると、述べてあるのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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