正信偈の教え-みんなの偈-

往生の確定

【原文】
成 等 覚 証 大 涅 槃
必 至 滅 度 願 成 就

【読み方】
等覚とうがくり、大涅槃だいねはんを証することは、
必至滅度ひっしめつどがん成就じょうじゅなり。


 「正信偈」の「法蔵ほうぞう菩薩ぼさついん位時にじ」という句からはじまる十八句は、「弥陀章」といわれる部分です。そこには、阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が、一切の人びとを浄土に往生させたいという誓願せいがんおこされたことが詠われています。それは、親鸞聖人が、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』の教えの要点を偈文にしてととのえられたものです。
 そして、その「弥陀章」の結びとなる部分が、「本願ほんがん名号みょうごう正定しょうじょうごう 至心ししん信楽しんぎょう願為がんにいん 成等じょうとう覚証がくしょう大涅槃だいねはん 必至滅度ひっしめつどがん成就じょうじゅ」(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり)という四句なのです。この四句の前半の二句については、前号に申し述べました。今回はその後半の二句について学びたいと思います。
 最初に「等覚を成り」とありますが、その「等覚」というのは、「無上むじょう正等しょうとう正覚しょうがく」という言葉を短くしたものと思われます。これは、仏になる覚りのことをいいます。「無上」ですから、その上がなく最高であるということです。
 「正等」は、かたよりがなく等しいということですから、平等ということになります。ただし、平等といいましても、あれとこれが平等だというようなことではなくて、いつでも、どこでも等しいということで、「普遍」と言い換えてもよい言葉なのです。次の「正覚」は、仏の完全な覚りのことです。
 釈尊が得られた覚りは、ご自身のための覚りというのではなくて、人類を導き、人類を救うことを目的とした、人類のための覚りだったのです。そのために、「この上にない、完全に平等な、すぐれた覚り」といわれるのです。この「無上正等正覚」というのは、インドの言葉を中国語に改めた言い方ですが、中国語に訳さないで、インドの言葉の発音を写し取って(「音写語」といいます)漢字に表記するときには、「のく多羅たら三藐さんみゃく三菩提さんぼだい」と書き表わされています。
 「等覚を成り」という言葉について、これは、菩薩の五十二の階位のうちの第五十一番目の「等覚位」(ほとんど仏に近い境地)のことだと、多く解釈されていますが、ここでは、親鸞聖人が、『大無量寿経』とは別に訳された『無量寿如来会』にある第十一願の願文に依っておられるように思われますので、菩薩ではなくて、仏になることと理解することにいたしました。
 「大涅槃」の「涅槃」は、もともとは、苦悩の原因である煩悩をすべて滅して、迷いから解放された状態を指す言葉です。また、菩薩たちがろく波羅はらみつという、気の遠くなるような厳しい修行によって到達される悟りの境地のことをいうようにもなりました。しかし、親鸞聖人の教えでは、「涅槃」は、私どもが、阿弥陀仏の本願によって遂げさせていただく「往生」を指しているのです。ですから、「成等覚証大涅槃」(等覚を成り、大涅槃を証することは)という句は、「仏になって、往生という大涅槃を身に受けるのは…」という意味になるわけです。
 「等覚を成り、大涅槃を証する」ということ、つまり、私たちが、往生という大涅槃にいたるのは、それは、阿弥陀仏が、法蔵菩薩であられたときに発された本願のうちの、「必至滅度の願」といわれる第十一の願い(聖典17頁)が成就したからです。第十一願はまた「証大涅槃の願」ともいわれているものです。それを親鸞聖人は「必至滅度願成就」(必至滅度の願成就せり)と詠っておられるわけです。
 「滅度」は「涅槃」のことですから、「必ず滅度に至る」ための願いというのは、「必ず涅槃に至る」願いということです。結局それは「必ず浄土に往生させる」という願いということになるのです。
 阿弥陀仏の本願によって、私たちに差し向けられている名号、つまり「南無阿弥陀仏」こそが、私たちの往生をまさしく確定するはたらきをもつのです。それには第十八の「至心信楽の願」が成就していることが直接の原因となっているのです。そして、私たちが往生するということで仏に成るのは、第十一の「必至滅度の願」が成就しているからなのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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