往生の確定
- 【原文】
成 等 覚 証 大 涅 槃
必 至 滅 度 願 成 就
【読み方】
を等覚 り、成 を証することは、大涅槃
の必至滅度 願 なり。成就 - 【原文】
「正信偈」の「
そして、その「弥陀章」の結びとなる部分が、「
最初に「等覚を成り」とありますが、その「等覚」というのは、「
「正等」は、かたよりがなく等しいということですから、平等ということになります。ただし、平等といいましても、あれとこれが平等だというようなことではなくて、いつでも、どこでも等しいということで、「普遍」と言い換えてもよい言葉なのです。次の「正覚」は、仏の完全な覚りのことです。
釈尊が得られた覚りは、ご自身のための覚りというのではなくて、人類を導き、人類を救うことを目的とした、人類のための覚りだったのです。そのために、「この上にない、完全に平等な、すぐれた覚り」といわれるのです。この「無上正等正覚」というのは、インドの言葉を中国語に改めた言い方ですが、中国語に訳さないで、インドの言葉の発音を写し取って(「音写語」といいます)漢字に表記するときには、「
「等覚を成り」という言葉について、これは、菩薩の五十二の階位のうちの第五十一番目の「等覚位」(ほとんど仏に近い境地)のことだと、多く解釈されていますが、ここでは、親鸞聖人が、『大無量寿経』とは別に訳された『無量寿如来会』にある第十一願の願文に依っておられるように思われますので、菩薩ではなくて、仏になることと理解することにいたしました。
「大涅槃」の「涅槃」は、もともとは、苦悩の原因である煩悩をすべて滅して、迷いから解放された状態を指す言葉です。また、菩薩たちが
「等覚を成り、大涅槃を証する」ということ、つまり、私たちが、往生という大涅槃にいたるのは、それは、阿弥陀仏が、法蔵菩薩であられたときに発された本願のうちの、「必至滅度の願」といわれる第十一の願い(聖典17頁)が成就したからです。第十一願はまた「証大涅槃の願」ともいわれているものです。それを親鸞聖人は「必至滅度願成就」(必至滅度の願成就せり)と詠っておられるわけです。
「滅度」は「涅槃」のことですから、「必ず滅度に至る」ための願いというのは、「必ず涅槃に至る」願いということです。結局それは「必ず浄土に往生させる」という願いということになるのです。
阿弥陀仏の本願によって、私たちに差し向けられている名号、つまり「南無阿弥陀仏」こそが、私たちの往生をまさしく確定するはたらきをもつのです。それには第十八の「至心信楽の願」が成就していることが直接の原因となっているのです。そして、私たちが往生するということで仏に成るのは、第十一の「必至滅度の願」が成就しているからなのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘