正信偈の教え-みんなの偈-

釈尊が世に出られたわけ

【原文】
如 来 所 以 興 出 世
唯 説 弥 陀 本 願 海

【読み方】
如来にょらい、世に興出こうしゅつしたまうゆえは、
ただ弥陀みだ本願海ほんがんかいを説かんとなり。


 「正信偈」の最初の部分、「弥陀章」についてのあらましの説明は、前回で終わりました。それは、親鸞聖人が『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』にもとづいて阿弥陀仏の本願のことを教えておられる部分でありました。
 阿弥陀仏の本願というのは、私たち一人一人を間違いなく救おうとしてくださっている、深く大きな願いのことでありました。そのような広大な願いが、私がこの世間に生まれてくる以前から、すでに私に差し向けられ、私のために用意されているということです。
 その広大な願いがはたらいているところに、実は私が生まれてきていることに、私が気づくのかどうか、そのような願いが現にはたらいているという事実を私が喜ぶのかどうか、そのことだけが残っている問題なのです。私にとっての最大の用事なのです。
 今回からは、釈尊について詠われている「釈迦章」といわれている部分に入ります。
 まず、「如来にょらい所以しょい興出世こうしゅっせ」「如来、世に興出したまうゆえは」とあります。「如来」というのは、「如(真実)から来た人」という意味ですが、この場合は、釈迦しゃか牟尼むに如来、すなわち釈尊のことをいっておられます。
 「世に興出したまうゆえ」というのは、「この世間にお出ましになられた理由」ということです。「所以」を「ゆえ」と読んでおられるのです。つまり、釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか、ということです。釈尊は、どのような目的があったために、この世に生まれてこられたのか、ということなのです。
 それについて、親鸞聖人は、「唯説ゆいせ弥陀みだ本願海ほんがんかい」すなわち「ただ弥陀本願海を説かんとなり」と述べておられます。つまり、釈尊がこの世間にお生まれになって、仏に成られたのは、ただただ、われわれに、阿弥陀仏の本願のことを教えようとされたためであった、ということです。
 「本願」という言葉に、親鸞聖人は「海」という字を添えておられます。それは、どのような人もすべて浄土に迎え入れたいとされる阿弥陀仏の本願が、海のように広く深い願いであることを印象深く表現されているのだと思われます。
 親鸞聖人は、たとえば「一乗海いちじょうかい」(真宗聖典196頁)とか、「功徳くどく大宝海だいほうかい」(真宗聖典206頁)というように、仏教の大切な言葉のあとに、しばしば「海」という字を添えておられます。これはやはり教えの広さ深さを表わしておられるのでありましょう。
 ところが、また一方では、「五濁ごじょく悪時あくじ群生海ぐんじょうかい」(真宗聖典204頁)とか、「一切苦悩の衆生海」(真宗聖典225頁)などというように、さまざまな汚れのなかで、悩み苦しみに浮き沈みするわれわれ衆生の現実についても、「海」という字をつけ加えておられます。聖人は「願海は二乗雑善ぞうぜんの中下の屍骸しがいを宿さず」(真宗聖典198頁)と教えておられますが、まことに、海は屍骸を岸辺に打ち上げてしまい、生きているものを住まわせるのです。阿弥陀仏の本願という海は、汚れた衆生、苦悩する衆生であっても、身をゆだねて喜ぶならば、生き生きと活かされるところなのです。
 親鸞聖人は、師の法然上人のもとで、本願念仏の教えに出遇われましたが、ほどなく念仏への弾圧という法難ほうなんに遭われて、越後に流罪になられました。京都に生まれ育たれた聖人は、この時はじめて海を見られたのではないかと思います。あらゆる川の水をそのまま受け入れ、生きものであれば、すべてを生き生きと活かす力をそなえた、広く深い日本海を感慨深くご覧になったことが偲ばれます。
 話をもとに戻します。釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか。釈尊は、たまたまこの世間にお生まれになり、たまたま仏になられて、人びとに教えを説かれた、ということではないのです。この世間にお出ましになられたのは、それは、ただただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしてくださったためである、ということなのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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