正信偈の教え-みんなの偈-

喜愛の心

【原文】
能 発 一 念 喜 愛 心
不 断 煩 悩 得 涅 槃

【読み方】
よく一念いちねん喜愛きあいの心をほっすれば、
煩悩ぼんのうだんぜずして涅槃ねはんを得るなり。


 「正信偈」には、これまで見てきましたところに、まず、阿弥陀仏の本願の徳が讃嘆してありました。本願というのは、一切の人びとを浄土に迎え入れたいという願いでありました。そしてその願いが、常に私どもに差し向けられていることが述べてありました。
 次いで、釈尊がこの世間にお出ましになられた、そのわけが述べてありました。それはただ、『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私どもに教えようとされたためであったのでした。
 そして、五濁ごじょくという悪い時代社会に生きる私どもは、阿弥陀仏の本願を説かれた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は教えておられるのでした。
 それでは、『大無量寿経』に示されている釈尊のお言葉に従うということは、どのようなことであるのか。また、釈尊のお言葉に素直に従うことによって、私どもはどうなってゆくのか。それらのことが、これからしばらく、八行十六句にわたって述べられるのです。
 まず、「能発一念のうほついちねん愛心あいしん 断煩悩得だんぼんのうとく涅槃ねはん」(よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)と詠われます。つまり、教えを信じて、ひと思いの喜びの心を起こすことができるならば、煩悩をなくさないまま、煩悩にまみれた身のままに、煩悩の支配を受けない涅槃という境地にいたることができる、と説かれているのです。
 あとの「不断煩悩得涅槃」については、次回に少し詳しく考えることにして、今回は「能発一念喜愛心」の句に注目したいと思います。
 この句の前に、「五濁ごじょくあく群生海ぐんじょうかい 応信如来如実言おうしんにょらいにょじつごん」(五濁悪時の群生海、如来如実のみことを信ずべし)とあります。五つの濁りのある悪い時代に生きる人びとは、釈迦如来が説かれた事実の通りのお言葉、つまり、釈尊が『大無量寿経』にお説きになられた阿弥陀仏の本願についての教え、それを信ずるべきであると、親鸞聖人は教えておられるのです。
 そしてこれに、「能発一念喜愛心」(よく一念喜愛の心を発すれば)という句が続くわけです。
 このような「正信偈」の偈文げもんの意味は、どのように受け取れるでしょうか。文脈からすると、それは、私どもが、釈尊のお言葉、つまり本願の教えを信じて、一念の喜びの心を起こすことができるならば、煩悩のままに、涅槃の境地を得ることができるという、そのような意味に受け取れることになります。
 けれども、親鸞聖人は、もう少し大切な意味をこの句に込めておられると思われます。「能発」(よく発す)というのは、文字通りには、起こすことができるという意味ですが、私どもが自分で(喜愛の心を)起こすことができる、というのではないでしょう。それは、阿弥陀仏の願いによって、その願われた通りに、(喜愛の心が)私どもの心の中にわき起こるということを意味するのです。
 さきに「応信如来如実言」(如来如実の言を信ずべし)と詠ってありました。この流れからしますと、「信」がもとになって「喜愛」があるわけです。しかも親鸞聖人が教えられる「信」は、私どもが自分の意志で起こすものではありません。「南無阿弥陀仏」としてはたらく、阿弥陀仏の本願の力によって起こるものと教えられています。
 阿弥陀仏の願いによって私どもに信心が生じ、その信心によって歓喜かんぎの心が起こされるのです。『大無量寿経』に、「あらゆる衆生しゅじょう、その名号みょうごうを聞きて、信心しんじん歓喜せんこと、乃至ないし一念せん」(聖典44頁)と説かれています。ここには、「南無阿弥陀仏」という名号によって「信心歓喜」があると教えられています。しかも「信心」と「歓喜」とが一つのこととして説かれているのです。
 まことに、信心をたまわっていることに気づかされることは、うれしいことなのです。同時に、自分に願いが差し向けられていることを素直に喜ぶことが、実は信心をいただくということになるわけです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

< 前へ  第19回  次へ >