凡夫も聖者も
- 【原文】
凡 聖 逆 謗 斉 回 入
如 衆 水 入 海 一 味
【読み方】
、凡聖 、ひとしく逆謗 すれば、回入
、海に入りて一味なるがごとし。衆水 - 【原文】
釈尊のお言葉、すなわち『
さらに、親鸞聖人は続けられるのです。「
「凡聖」というのは、煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」とです。「凡夫」と「聖者」とは、煩悩に支配され続けているか、それとも煩悩を滅し尽くしているか、そこに違いがあるわけです。
また「逆謗」というのは、「
五逆とは、①父を殺すこと(害父) ②母を殺すこと(害母) ③聖者を殺すこと(
「
煩悩にまみれ続けている凡夫であろうと、煩悩を滅し尽くした
しかし、凡夫であろうと、聖者であろうと、五逆であろうと、謗法であろうと、自分本位という思いを大きくひるがえして、真実に対して謙虚になり、本願を喜べるようになるならば、阿弥陀仏の願いによる救いにあずかることになると、親鸞聖人は教えておられるのです。
それはちょうど、どこから流れてきた川の水であろうと、海に注ぎ込めば、みな同じ塩味になるようなものだと教えておられるわけです。
海に流れ入る水には、どこから流れ出てくるか、それぞれ水源の違いがあります。また途中でどのような所を流れ下ってくるのか、そのたどってくる場所や状況が違っています。しかし、出発や経過がどうであれ、海に入れば同じ水になるわけです。
人はそれぞれ、いまの生き方の実状に違いがあります。善し悪しの違いもあります。またこれまでに生きてきた経過や経歴もさまざまです。
けれども、どのような状態にあろうと、またどのような経歴であろうと、阿弥陀仏の願いのもとでは何の違いも区別もないと教えられているのです。ただ問題は、私どもの今のあり方がどうであるかということです。私どもが、真実に背を向けたままの愚かな自分にこだわり続けるのか、それとも、そのような自分に阿弥陀仏の願いが向けられていることに気づかせてもらって喜ぶのか、というところに決定的な相違があります。
凡夫も聖者も五逆や謗法ですら、ひとしく心をひるがえすならば、さまざまな川の水が海に流れ入って一つの味になるようなものだ、と詠われていますが、この句の直前にあるように、一念の喜愛の心を起こすならば、自ら煩悩を断ち切ることができない者たちであろうとも、涅槃、すなわち往生を得させてもらえるのです。
ここには、本願に触れた一念の喜愛の心が、何にも先立って大切であることが教えられているわけです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘