常に照らされている私の事実
- 【原文】
摂 取 心 光 常 照 護
已 能 雖 破 無 明 闇
【読み方】
の摂取 、常に心光 照 したまう。護
すでによく無 の明 を闇 すといえども、破 - 【原文】
自分のはからいを頼りにする、そのような自力の心をひるがえすことが大切であると、親鸞聖人は教えられました。そのことを聖人は、「
釈尊は、『
さらに、親鸞聖人は、「
「光」は、多くの場合、仏の「
そのような心は真っ暗闇のようだと教えられています。暗闇を暗闇でなくするもの、それが「光」です。しかし、暗闇が、どこか他の所へ移動していって、そこが暗闇でなくなるのではありません。「光」のはたらきを受けて、同じ暗闇そのものが、そのまま暗闇でなくなるのです。私どもの心を照らし出し、その心の暗闇を破ってくださるのが仏の「智慧の光」なのです。
ところが、仏の「智慧」は、単に「智慧」としてだけはたらくのではありません。実は、「智慧」が完全にはたらくときには、それは「慈悲」となって私どもにはたらきかけているのです。言い換えれば、私どもに差し向けられている「慈悲」を身に感ぜしめられることによって、仏の深い「智慧」のはたらきを知らしめられるのです。そのような「智慧」にもとづいた「慈悲」の心のことを、「摂取の心光」と詠われているのです。
「摂取の心光」、すなわち阿弥陀仏の大慈悲心の光は、「常照護」(常に照護したまう)と言われています。いつも私たちの身と心を包んで照らし、私たちを護ろうとしてくださっているというわけです。
親鸞聖人は、「常照護」を「照護したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。
私たちは、自分の思いを最優先させて物事に接しています。そして、自分にわかることだけが事実であると思い込んでいるのではないでしょうか。親鸞聖人は、『仏説無量寿経』の教えを通して、阿弥陀仏の大慈悲心の光が、常に照護してくださっているという事実にお気づきになり、私どもの思い込みが、実は思い違いでしかないことを指摘しておられると思われるのです。
常に私どもを照らしている光によって、私たちの「無知」(無明)は破られているはずなのです。それもまた事実なのです。しかし、心を支配している「
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘