信心を覆うとも
- 【原文】
摂 取 心 光 常 照 護 已 能 雖 破 無 明 闇
貪 愛 瞋 憎 之 雲 霧 常 覆 真 実 信 心 天
【読み方】
摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。
親鸞聖人は、「摂取心光常照護」(摂取の心光、常に照護したまう)と詠っておられます。これによれば、私たちは、すべてを摂め取ろうとされる阿弥陀仏の大慈悲心の光に常に照らされ、常に護られているのです。
この光に照らされているという事実によって、「已能雖破無明闇」(すでによく無明の闇を破すといえども)とありますように、私どもの心の「無明」の闇は、すでに破られているのです。
「無明」というのは、根元的な無知です。真実に暗く、真実を知見する智慧の明るさが欠けている状態です。それが凡夫の迷いの根本となる煩悩なのです。「無明」は、私どもの心のなかでは「愚癡」というすがたをとってはたらきます。
「愚癡」は、どうしようもない愚かさです。何が真実であるのか、まったくわかっていないのです。真実がわかっていないだけではなく、そのわかっていないことすら、わかっていないのです。逆に、自分にわかっていること、それが真実だと思い込んでいるのです。まことに愚かというほかはありません。哀れで滑稽なすがたです。
このような「愚癡」となってはたらく「無明」の闇は、実は、阿弥陀仏の大慈悲心の光によってすでに破り尽くされているはずなのです。そして私どもは、真実に素直に向き合うことができているはずなのです。
ところが、「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり)と詠われていますように、「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のようにわき立ち、私どもの心に立ち込めて、「真実信心」を覆い隠してしまっているのです。
「貪愛」は「貪欲」とも言われますが、しがみつく愛着・欲望です。私どもは、しがみつくべきでないものにしがみついてしまいます。それは無知によって起こる心の動きです。無知ですから、しがみつけば必ず苦という結果をもたらすのに、それを知らずに、自分にとってこの上なく大切なものと錯覚して、愛着をいだくのです。
「瞋憎」は「瞋恚」とも言われます。怒り憎む心です。怒りや憎しみは、自分の思い通りにならないときに起こります。私どもは、何ごとについても、自分の思い通りになることを期待します。ときには、思い通りになるはずのないことをも、思い通りにしようとこだわります。これも無知によって起こります。怒りや憎しみは、他の人びとを傷つけると同時に、自分自身をも傷つけることになります。そして心の平静さを失わせ、ますます間違った方向に自分を追いやってしまうのです。
せっかく阿弥陀仏の大慈悲心の光に照らされて、無知が除かれ、「真実信心」が受け止められるようにしてもらっているはずなのに、どこからともなくわき起こってくる「貪愛」や「瞋憎」によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。わざわざ自分で自分をいっそう深刻な無知にしているのです。
「真実信心」という言葉には、少し注意が必要です。私どもの「信心」が、どうして「真実」であるのかということです。「信心」は、私どもの判断で、信じるか信じないかを決定する信心ではありません。愚かで間違いの多い私どもが決定する信心であるならば、どうして「真実」と言えるでしょうか。それは阿弥陀仏から振り向けられた信心なのです。自力によって引き起こす信心ではなくて、阿弥陀仏からいただく、他力の信心です。だから、その「信心」は「真実」なのです。
私どもは、自らが引き起こす「貪愛」や「瞋憎」によって、せっかく回向されている「真実の信心」を覆い隠して、それを自分から遠ざけているのです。けれども、阿弥陀仏の大慈悲心の光は、そのようなことでは覆い尽くせるものではないと、親鸞聖人は、この次の句に詠われます。
九州大谷短期大学長 古田和弘
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