信心を覆うとも
- 【原文】
摂 取 心 光 常 照 護 已 能 雖 破 無 明 闇
貪 愛 瞋 憎 之 雲 霧 常 覆 真 実 信 心 天
【読み方】
の摂取 、常に心光 照 したまう。すでによく護 無 の明 を闇 すといえども、破
・貪愛 の瞋憎 、常に真実雲霧 の天に信心 えり。覆 - 【原文】
親鸞聖人は、「
この光に照らされているという事実によって、「
「無明」というのは、根元的な無知です。真実に暗く、真実を
「愚癡」は、どうしようもない愚かさです。何が真実であるのか、まったくわかっていないのです。真実がわかっていないだけではなく、そのわかっていないことすら、わかっていないのです。逆に、自分にわかっていること、それが真実だと思い込んでいるのです。まことに愚かというほかはありません。哀れで滑稽なすがたです。
このような「愚癡」となってはたらく「無明」の闇は、実は、阿弥陀仏の大慈悲心の光によってすでに破り尽くされているはずなのです。そして私どもは、真実に素直に向き合うことができているはずなのです。
ところが、「
「貪愛」は「
「瞋憎」は「
せっかく阿弥陀仏の大慈悲心の光に照らされて、無知が除かれ、「真実信心」が受け止められるようにしてもらっているはずなのに、どこからともなくわき起こってくる「貪愛」や「瞋憎」によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。わざわざ自分で自分をいっそう深刻な無知にしているのです。
「真実信心」という言葉には、少し注意が必要です。私どもの「信心」が、どうして「真実」であるのかということです。「信心」は、私どもの判断で、信じるか信じないかを決定する信心ではありません。愚かで間違いの多い私どもが決定する信心であるならば、どうして「真実」と言えるでしょうか。それは阿弥陀仏から振り向けられた信心なのです。自力によって引き起こす信心ではなくて、阿弥陀仏からいただく、他力の信心です。だから、その「信心」は「真実」なのです。
私どもは、自らが引き起こす「貪愛」や「瞋憎」によって、せっかく
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘