信心を覆うとも
- 【原文】
譬 如 日 光 覆 雲 霧
雲 霧 之 下 明 無 闇
【読み方】
たとえば、日光の雲 に霧 わるれども、覆
雲霧の 、明らかにして下 きことなきがごとし。闇 - 【原文】
今回の「
まず、「
ところが、本当に照護されているのかどうか、私どもの常識では確信がもてません。けれども、現に照護されていることは、まぎれもない事実であると、親鸞聖人は受けとめられたのです。それは、照護されていることを身をもって確信された人のお言葉です。敢えて言うならば、それが親鸞聖人の常識なのです。
阿弥陀仏の大慈悲心の光に照護されていますので、その光によって、私どもの心の闇はすでに破り尽くされているのです。「
にもかかわらず、私どもの心には、貪りや憎しみなどの煩悩が、雲や霧のように立ちこめてきています。そして、その雲や霧のために、阿弥陀仏の大慈悲心という天空を覆ってしまっているのです。阿弥陀仏の大慈悲心は、「真実
阿弥陀仏は、大慈悲心によって、「真実信心」を私どもに差し向けて(
しかしながら、そのあと、「たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」と詠われています。日光が雲や霧に覆われてしまっているため、私どもには日光を見ることはできません。けれども日光は輝き続けているわけですから、その雲や霧の下は、決して暗闇ではなく、私どものところに明るさは届いているのです。太陽そのものが隠れた夜の暗闇とは、まったく異なっているのです。
私どもは、心に起こす貪りや憎しみなどの煩悩よって、せっかくの「真実信心」を覆ってしまっているわけです。しかし、「真実信心」を見失っているからといって、「真実信心」が私のところに届かなくなっているのかというと、そうではないと、親鸞聖人は教えておられます。雲や霧が覆っていても、雲や霧の下にも明るさは届いているのです。
私どもは、雲や霧がなくなったとき、初めて日光の恩恵を受けるかのように錯覚しますが、実はそうではないのです。雲や霧が立ちこめているときでも、日光の恩恵を受けているのです。煩悩がなくなったとき、大慈悲心、つまり「真実信心」に気づかされるのではありません。取り除き難い煩悩にまみれながら、「真実信心」に目覚めることがあるのです。煩悩が決して信心の妨げにはならないということでしょう。
むしろ、日光の輝きによって、雲や霧のありさまが、はっきりと確かめられます。ちょうどそのように、常に私を照護し続ける阿弥陀仏の大慈悲心によって、かえって、貪りや憎しみの心に支配されている自分の実態が、どのようなものであるかを思い知らされるのではないでしょうか。「真実信心」に背を向けている自分の姿が映し出されてくるのではないでしょうか。
そのようなことを、親鸞聖人は、私どもに教えようとなさっているように思うのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘