大きな喜び
- 【原文】
獲 信 見 敬 大 慶 喜
即 横 超 截 五 悪 趣
【読み方】
信を れば見て獲 い大きに敬 慶 せん、喜
すなわち横に五悪 を趣 す。超截 - 【原文】
まず「信を獲れば」といわれています。これは申すまでもなく、阿弥陀仏の本願を信ずる
阿弥陀仏の本願は、多くの人びととともに、この私を悩み苦しみから救ってやりたいと願ってくださる願いです。哀れなことに、私は自分がそこまで悩み苦しんでいることにすら、気づいていないようです。眼の前の利害に心を奪われて、自分の思いに合致すれば満足し、そうでなければ、不平不満をいだいて、他を恨むのです。
ところが、そのような私を救いたいと願われる願いが、私の知らないうちに、すでにはたらいているのです。それが本願です。常にはたらき続けている本願のなかに、私はいま生活しているのです。
しかも、そのような本願を信ずるということは、私が自分で心に決めて信ずるのではないと教えられています。自分で自分の心に決めることは、「自力のはからい」でしかない、といわれます。私がどれほど誠実に、熱心に信ずるとしても、それは本願を信ずるというよりも、私の都合を信じているに過ぎないのです。まことの「信」は、私が起こすものではなくて、いただくものだと教えられています。
私という人間は何とも情けない生きものであるということ、そしてその私を何としても救ってやりたいという願いが現にはたらいているということ、そのような事実に、ふと気づかされ、しみじみと納得させられること、それが「信を獲る」ということではないでしょうか。
あくまでも誤魔化しでしかない私自身の実態と、そのような私だからこそ、願いが差し向けられているという事実に、心の底から頷かされれば、何かが見えてきて、何かを敬う心が私に起こるのだと諭されているのです。それが「信を獲れば見て敬い」というお言葉です。
それでは、何が見えてきて、何を敬うのかということですが、これについては、いくつかの受け止め方ができるように思われます。
第一に、阿弥陀仏と、阿弥陀仏が願われているその願いとを、素直な心の眼によって見届けるということです。そうなれば、それが本当にありがたく思われ、阿弥陀仏に心から敬服する以外、私には何もできない、という意味になります。
第二に、私を救いたいと願われる願いが現にはたらいていることに気づかされると、この本願に生きられた七高僧のように、まことの信心を得られた方々のお心がよくよく見えてくる、という意味に理解されます。そうなれば、その方々を敬愛する気持ちが深くなるということになります。
第三に、阿弥陀仏の本願に気づかされると、ますますはっきりと愚かで哀れな自分自身の姿が見えてくるという理解です。そして、このような自分を救うための信心がすでに用意されているという事実を、自分としては敬いの心をもって受け入れるしかない、というように理解されます。
これらの他にもいろいろな理解があるかと思います。正直なところ、親鸞聖人のお心をどのように汲み取ればよいのか私にはわかりませんが、いまさし当たっては、第三の理解のように受け止めておきたいと思います。
この私をどうしても導いて救ってやりたいと願ってくださる願いに、自分が包まれていることに気づかされるときに、あらためて見えてくるものは、やはり何もかも自分本位に考えて、どこまでも思い上がっている、何とも情けない自分の姿ではないでしょうか。そのような私であればこそ、私の思いを越えた願いが差し向けられているのです。私はその事実を心底から敬うこと以外には、何もできないのです。その事実におまかせするしかないのです。
そのように、自分の姿を見て本願を敬う身になるならば、それこそが私にとってこの上にない喜び、「
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘