正信偈の教え-みんなの偈-

横に超える

【原文】
獲 信 見 敬 大 慶 喜
即 横 超 截 五 悪 趣

【読み方】
信をれば見てうやまい大きにきょうせん、
すなわち横に五悪しゅ超截ちょうぜつす。


 私たちは、目の前の喜怒哀楽に気を奪われています。そのために、自分が一体どのような者として今生きているのか、その自分の根本を見失っているようです。そして、そのことによって、さらに喜怒哀楽の情に支配され続けているのです。
 そのような私を何とか救ってやりたいと願われている、阿弥陀仏の本願が、現に私に対して差し向けられているのだと、釈尊は教えておられます。そして、釈尊の教えに接して、その願いにつくづくと気づかされるならば、願いに対して素直になれる「信」が得られると、親鸞聖人は教えておられます。
 願いに素直になると、自分の思いだけを頼りにして、喜怒哀楽に支配されている自分の愚かさが、さらにはっきり「見えて」くると言っておられます。そうすると、私はどうなるのか。
 心から、阿弥陀仏の本願を「敬える」ようになり、それはこの上ない大きな「喜び」となると言われます。それが「ぎゃく信見しんけんきょうだいきょう」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と詠われている意味でありました。
 その願いを敬い、喜べるようになるならば、それは、私どもが日ごろ経験している「五悪趣」といわれる迷いと悩みの状態を一挙に超えることになるのです。そして「五悪趣」の迷妄めいもうを断ち切ることになります。そのことを、親鸞聖人は、「即横そくおう超截ちょうぜつ悪趣あくしゅ」(すなわちよこざまに五悪趣を超截す)と詠っておられるのです。
 「五悪趣」の意味は、前号に申し述べた通りであります。「超截」は、それを飛び越えて、束縛を断ち切ることです。「即」は「すなわち」と読んでありますが、「即座に」という程の意味です。本願について「大きに慶喜」するならば、「たちどころに」「五悪趣を超截する」ことになるのです。念仏を心から喜ぶならば、たちどころに、一切の迷い、一切の悩みから解き放たれるということです。念仏を喜ぶことが、そのまま、悩みの解決であるということです。逆に言うと、悩みが解決しないのは、念仏を喜べないからだということになります。
 ところで、「横に五悪趣を超截す」とありますが、この「横」と「超」とを合わせた「横超おうちょう」という言葉があります。これは親鸞聖人が独特の使い方をなさったお言葉です。「横超」というのは、順序や段階をまったく経ないで、一挙に横っ飛びをすることです。
 たとえば、仏に成って一切の人びとを救いたいという志を固めた菩薩は、命がけの修道を延々と重ねて、一段一段と段階を経て、徐々に仏の境地に近づいていくというのが、インド以来の仏教の通常の見方でありました。また、浄土に往生したいと願う者は、そのような善い結果が生ずるための原因となる善業ぜんごうを、十分に積み重ねなければならないと見るのが、通常の理解なのです。そのような考え方を親鸞聖人は「竪超じゅちょう」と言われます。目標とされる到達点に向かって、順序よく、段階をたてに一つ一つ登りつめて行く方法です。
 ところが「横超」は、それと違っています。一切の段階を飛び越えて、一挙に目的に達するという見方です。迷いの凡夫が、難題を一つ一つ解決して、徐々に仏の境地に近づくというのではないのです。凡夫が凡夫のままで、仏に成るのです。
 本来は、仏でないのを凡夫といい、凡夫でないのを仏というのです。ところが、凡夫が一挙に仏に成るのです。浄土往生にふさわしくない者、往生できるはずのない者が、実は往生するのです。このような不思議なことがどうして起こるのでしょうか。
 それは、常に私どもにはたらきかけている阿弥陀仏の本願の力によるのです。私どもの常識では説明のつかない、大慈悲のはたらきによるのです。
 先の「竪超」は、自分の力を頼りにしています。自分の努力を信頼しています。しかし、自分の力が信頼できなくなれば、一体どうするのか。「いずれのぎょうもおよびがたき身」は、阿弥陀仏の願いという他力にお任せする以外に、なすすべはないのです。本願力にお任せするときに、「横超」ということが起こると教えておられるのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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