正信偈の教え-みんなの偈-

聞信するということ

【原文】
一 切 善 悪 凡 夫 人  聞 信 如 来 弘 誓 願
仏 言 広 大 勝 解 者  是 人 名 分 陀 利 華

【読み方】
一切善悪のぼんにん如来にょらい誓願ぜいがん聞信もんしんすれば、
仏、広大しょうひとのたまえり。この人をふん陀利華だりけと名づく。


 ここではまず、親鸞聖人は、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(一切善悪凡いっさいぜんあくぼんにん 聞信如来もんしんにょらい誓願ぜいがん 仏言広大ぶつごんこうだいしょうしゃ)と詠っておられます。
 「凡夫人」は短く「凡夫」とも言われますが、凡夫というのは、聖者しょうじゃでない人のことで、普通の人のことを言います。私たちは、静かに自分自身の生き方を見つめ直してみると、どう見ても聖者とは言えないのです。だから私たちは凡夫なのです。さらに厳しく自分を見つめるときに、「あくの凡夫」という言い方がなされます。自分は愚かでよろしくない人間だという自覚です。
 善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫人が、その善悪に関係なく、「阿弥陀如来のひろ誓願せいがんを聞信するならば、」と続けられています。阿弥陀仏は、すべての人びとを救いたいと願っておられます。すべての人びとを救わなければならないと誓っておられるのです。それがここに言われる誓願です。しかもその誓願は、いつでも、どこでも、はたらき続けているのです。だから「弘い誓願」と言われているわけです。
 その誓願は『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』の中に四十八願として説き示されています。中でもその中心となるのが、「念仏往生の願」と言われている第十八願です(『真宗聖典』18頁)。私どもは、真実を知らないばかりに、迷い続け、悩み苦しみ、不平や不満をつのらせながら日々を過ごしています。そのような、なさけない愚かなわれわれを、念仏によって助けたいと願ってくださっているわけです。しかも、阿弥陀仏が私どもに代わって用意してくださった念仏、すなわち私どもに差し向けられている「南無阿弥陀仏」、それをそのまま素直に受け取ってほしいと願っておられるのです。
 そのような願いが、この私に差し向けられているにもかかわらず、いや、そのような願いがはたらく真っ只中に私は生きているにもかかわらず、私は心からそのことに気づいていないのです。そのような願いに気づかせるのが「聞信」ということになります。親鸞聖人以来、ずっと「聞法もんぽう」ということが大切にされてきた意味がそこにあると思われます。
 法を聞くということは、阿弥陀仏の願われたことについて説き示されるその場所に身を置くということです。気づかずに過ごしてきたことに気づかせてもらえる場所に足を運ぶということです。阿弥陀仏の誓願のことが説かれているのは、『仏説無量寿経』です。だから、阿弥陀仏がどのようなことを、どのように願っておられるのかを、私どもに教えておられるのは釈尊なのです。釈尊の教えについて語られることを聴聞ちょうもんすること、それはもちろん聞法であります。しかしそれだけではないでしょう。釈尊の教えを伝達することも、実は釈尊の教えを聴聞することになるのです。親鸞聖人が釈尊の説かれた念仏の教えをどれほど喜ばれたのか、それを互いに受け止め合い、確かめ合う場が、聞法の場なのです。
 「聞信」は、聞法して信ずることですが、「信ずる」ということは、疑わないということです。そもそも疑いの心というのは、教えよりも、自分の思いや考えを大切にするときに起こります。だから「信ずる」ということは、何かのために信ずるとか、信ずれば自分はどうなるかとか、そういうことではなくて、「はからいを離れよ」と教えられているように、自分の思いを離れ、教えに対して自分を空しくして謙虚になることではないでしょうか。
 そのように、阿弥陀仏の弘い誓願のことを聞信するならば、仏、つまり釈尊は、その人のことを「広大勝解の者」と言ってくださると教えられています。阿弥陀仏の誓願について聞信しなければならないのは、凡夫人であります。凡夫人であるには違いないのですが、聞いて信ずるということがあるならば、その凡夫人は広く偉大な、すぐれた見解をもつ者であると、釈尊は言われるのです。そしてその人を「ふん陀利華だりけ」(白い蓮の華)のように気高く清らかな人だと呼ばれると、親鸞聖人は詠っておられるのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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