聞信するということ
- 【原文】
一 切 善 悪 凡 夫 人 聞 信 如 来 弘 誓 願
仏 言 広 大 勝 解 者 是 人 名 分 陀 利 華
【読み方】
一切善悪の凡 夫 、人 の如来 弘 を誓願 すれば、聞信
仏、広大勝 の解 と者 えり。この人を言 分 と名づく。陀利華 - 【原文】
ここではまず、親鸞聖人は、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(
「凡夫人」は短く「凡夫」とも言われますが、凡夫というのは、
善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫人が、その善悪に関係なく、「阿弥陀如来の
その誓願は『
そのような願いが、この私に差し向けられているにもかかわらず、いや、そのような願いがはたらく真っ只中に私は生きているにもかかわらず、私は心からそのことに気づいていないのです。そのような願いに気づかせるのが「聞信」ということになります。親鸞聖人以来、ずっと「
法を聞くということは、阿弥陀仏の願われたことについて説き示されるその場所に身を置くということです。気づかずに過ごしてきたことに気づかせてもらえる場所に足を運ぶということです。阿弥陀仏の誓願のことが説かれているのは、『仏説無量寿経』です。だから、阿弥陀仏がどのようなことを、どのように願っておられるのかを、私どもに教えておられるのは釈尊なのです。釈尊の教えについて語られることを
「聞信」は、聞法して信ずることですが、「信ずる」ということは、疑わないということです。そもそも疑いの心というのは、教えよりも、自分の思いや考えを大切にするときに起こります。だから「信ずる」ということは、何かのために信ずるとか、信ずれば自分はどうなるかとか、そういうことではなくて、「はからいを離れよ」と教えられているように、自分の思いを離れ、教えに対して自分を空しくして謙虚になることではないでしょうか。
そのように、阿弥陀仏の弘い誓願のことを聞信するならば、仏、つまり釈尊は、その人のことを「広大勝解の者」と言ってくださると教えられています。阿弥陀仏の誓願について聞信しなければならないのは、凡夫人であります。凡夫人であるには違いないのですが、聞いて信ずるということがあるならば、その凡夫人は広く偉大な、
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘