正信偈の教え-みんなの偈-

分陀利華

【原文】
一 切 善 悪 凡 夫 人  聞 信 如 来 弘 誓 願
仏 言 広 大 勝 解 者  是 人 名 分 陀 利 華

【読み方】
一切善悪の凡夫人ぼんぶにん如来にょらい誓願ぜいがん聞信もんしんすれば、
仏、広大しょうひとのたまえり。この人をふん陀利華だりけと名づく。


 まず、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(一切善悪凡いっさいぜんあくぼんにん 聞信如来もんしんにょらい誓願ぜいがん 仏言広大ぶつごんこうだいしょうしゃ)とあります。
 善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫が、阿弥陀如来の広大な誓願せいがんについて聞信するならば、それぞれの善悪に関係なく、釈尊は、その人びとのことを広く偉大な、すぐれた見解をもつ人であると言ってくださるのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
 阿弥陀仏の誓願は、どのような人でも、例外なく救いたいと願われた願いでありました。しかも、およそ往生とは縁がないと思われるような人、自分の力ではとても往生できるはずのない人、そのような人をこそ救いたいと願っておられるのです。
 したがって、阿弥陀仏の本願からすれば、世間で善とされる人も、悪とされる人も、まったく関係のないことなのです。有能な人も、無能な人も、区別がないのです。本願は、人の善悪や能力を越えていて、それらをすべてまとめて包み込むような、大きな力なのです。
 ただ、誰にとっても、阿弥陀仏の本願について説かれた教えを聞信することが大切だと教えてあります。聞いて信ずるということは、どのようなかたちであろうと、教えに触れさせてもらって、触れ得た教えを疑わないことです。
 阿弥陀仏の本願について教え示された釈尊のお心に触れて疑わないならば、善であろうと悪であろうと、その人は、釈尊が期待してくださった通りの、勝れた了解をもつ人になれるのです。そのような人はまた、「ふん陀利華だりけ」と名づけると、親鸞聖人は詠っておられます。
 「分陀利華」というのは、蓮の華のことです。蓮の華のなかでも、とくに白い蓮の華です。白い蓮の華は、インドではプンダリーカと呼ばれていました。中国語にはカタカナやひらがながありませんから、インドの言葉の発音を漢字で写し取って、「分陀利華」という文字があてはめられたのです。
 インドには、たくさんの種類の美しい花があることでしょうが、それらの花のなかで、蓮の華がもっとも気高く尊い華とされてきたのです。お寺の本堂やご門徒のお内仏などの荘厳しょうごんに蓮がデザインされているのも、そのためだと思います。
 ここでは、阿弥陀仏の本願の教えを聞信する人は、蓮の華のように尊ばれるという意味になります。『仏説観無量寿経ぶっせつかんむりょうじゅきょう』には、
「もし念仏する者は、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」(『真宗聖典』122頁)
と説かれています。
 蓮の華はもっとも気高く尊い華なのですが、それでは、その華はどのような所に生育するのかということについて、親鸞聖人は『教行信証』に、『維摩経ゆいまきょう』というお経から、次のような経文を引用なさっています。
「高原のろくには、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥おでいに、いまし蓮華を生ず。」(『真宗聖典』288頁)
 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような、明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではないのです。そうではなくて、誰からも遠ざけられるような、汚らしくてジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲くのです。一切の汚れに汚されていない真っ白な蓮華は、ドロドロと濁りきった泥沼のなかにしか咲かないのです。何とも不思議な感じがします。
 世間の泥にまみれている哀れな凡夫、煩悩にあふれた日常に埋没していて、そこから脱け出そうにも脱け出せない悲しい凡夫、何が人生の最後の依り処なのかがわからず、そのわかっていないことすら、わかっていない愚かな凡夫、そのように情けない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏は救いたいと願っておられるのだと教えられています。
 私たちの日常は、まさに「卑湿の淤泥」であります。釈尊と親鸞聖人の教えから、そのような我が身のありようをつくづくと思い知らされて、阿弥陀仏から私たちに差し向けられている願いのことをよくよく聞かせてもらい、疑うことなく素直になって信じるならば、その人こそ、泥のなかに咲く白い蓮華であると言われているのです。何ともありがたいことです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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