正信偈の教え-みんなの偈-

有無の見

【原文】
釈 迦 如 来 楞 伽 山  為 衆 告 命 南 天 竺
龍 樹 大 士 出 於 世  悉 能 摧 破 有 無 見

【読み方】
しゃ如来、りょうせんにして、しゅうのために告命ごうみょうしたまわく、
南天竺なんてんじくに、りゅう樹大じゅだい世にでて、ことごとく、よく有無うむけんざいせん


 釈尊は、りょうせんという山で説法をされたとき、聴衆に向かって、重要な予告をなさいました。後の世、インドの南の方に、龍樹りゅうじゅという菩薩が出るであろうと。そして、ものごとを肯定する「」とか、否定する「」とか、そのような誤った考えにこだわる見方をことごとく砕き破るであろうと。
 龍樹という人は、二世紀から三世紀にかけて活躍された人です。釈尊の教えを正しく受け継がれた人です。『ちゅうろん』や『だい智度ちどろん』など、貴重な著作を残しておられますが、これらの著作によって、どのような考え方をするのがもっともよく釈尊のお心にかなうのか、その根本を明らかにしておられるのです。
 このため、後に中国や日本の仏教において、「八宗の祖師」と言って龍樹だいを崇めてきたのです。八宗というのは、八つの宗派ということではありません。仏教のあらゆる宗旨ということです。仏教全体ということです。釈尊以後に出られた最高の祖師ということなのです。
 また龍樹大士は、『十住じゅうじゅう毘婆びば沙論しゃろん』という著作も著わされました。ここには、「難行道なんぎょうどう」と「行道ぎょうどう」という、念仏の教えにとても密接に関係する教えが述べられているのです。親鸞聖人は、このような龍樹大士の教えに出遇われたわけです。
 釈尊の予告によりますと、その龍樹大士は、「悉能摧しつのうざい破有無はうむけん」(ことごとく、よく有無の見を摧破せん)とありますように、「有」「無」にこだわる邪見じゃけんを粉砕されるであろうということでした。「有の見」というのは、「常見じょうけん」とも言いますが、ものの実在に固執する見解です。一方の「無の見」というのは、「断見だんけん」とも言いますが、虚無にこだわる見方です。残されている著作によりますと、龍樹大士は、「有見」と「無見」と、この両方の考え方を一挙に払い除いて、事実を事実の通りに受け取ることが大切であると教えておられます。
 たとえば、人間が死んでしまっても、霊魂のようなものが実在し続けると考えるのが、「有見」です。それは、ぼんがそのように思い描いているだけであって、事実としてそうなのかどうか、ということとは関係がないのです。
 また、人が死ねば、まったく滅尽してしまって、無に帰するのだと考えるのが「無見」です。これも、凡夫がそのように勝手に思い込んでいるだけであって、事実とは関係がないことなのです。
 いずれも、凡夫が自分の思いを語っているに過ぎません。事柄の事実そのものとは、まったく関係がないのです。
 凡夫というのは、煩悩にまみれた愚かなあり方をしているのだと、釈尊は教えておられます。私たち凡夫は、浅はかな知識にたより、限られた経験にもとづいて、自分本位にものごとを判断します。そして、それがあたかも「事実」であるかのように錯覚してしまうのです。要するに、ほしいままに、自分が思いたいように思い込んでいるだけですから、それは「事実」ではないわけです。
 実在するのか、実在しないのか、そのようなことよりも、「実在する」とか、「実在しない」とか、そのように自分勝手に思い込んでこだわる、そのような「思い」や「こだわり」から、まずは離れる必要があると、龍樹大士は教えておられるのです。そうでなければ、自分が迷いを深めて混乱するばかりか、他人をも混乱させて苦しませることになると教えられるのです。
 釈尊は、「縁起」という教えをお説きになりました。縁起の法は難解ですが、あえて一言で言いますならば、一切のものごとは、互いに他のものごとと関係しつつ成り立つのであるから、それ自体で、単独に成り立つと思うのは誤りである、ということです。しかも、その関係も、縁(条件)次第で、どのようにも変化するということです。
 釈尊が説かれた「縁起」の深い内容を、龍樹大士は「くう」ということによって顕かにされました。それは、ものごとを固定的に考えたり、実体的にとらえたりして、それにこだわってはならないという教えなのです。ものごとの「事実」は、私たちの知識ではなくて、釈尊が教えられた智慧ちえによって明らかになるということなのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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