横超の大誓願
- 【原文】
依 修 多 羅 顕 真 実
光 闡 横 超 大 誓 願
【読み方】
修多羅に依って真実を顕して、
横超の大誓願を光闡す
「依修多羅顕真実」(修多羅に依って真実を顕して)とありますように、天親菩薩は、修多羅、つまり『仏説無量寿経』によって真実を顕かにされました。
天親菩薩が顕かにされた真実とは何であるのかといえば、それは、「帰命無碍光如来」(無碍光如来に帰命したてまつる)ということ、すなわち「南無阿弥陀仏」というお名号でありました。如来よりいただいている「南無阿弥陀仏」だけが真実であることを顕かにされたのでありました。
そして親鸞聖人が「光闡横超大誓願」(横超の大誓願を光闡す)と続けておられますように、天親菩薩は「横超の大誓願」を光り輝かせて明らかにされたのです。「横超」というのは他力のこと、「大誓願」は、一人ももらすことなく浄土へ迎え入れたいと誓い願われた阿弥陀仏の本願です。
親鸞聖人は『愚禿鈔』という著作を残しておられますが、その著作の中に「横超」という教えが示されています。一口に仏教というけれども、その内容は四つに分けて見ることが必要であると教えておられるのです。(『真宗聖典』437頁)
まず仏教の全体を「竪」と「横」の二種に分けられます。「竪」は、順序次第に従って段階的に一つの方向に進もうとする方法をいいます。つまり、自力・聖道門の仏教です。「横」は、順序段階を経ずに一挙に最終目的を達成しようとする方法です。すなわち他力・浄土門の教えです。
そして「竪」と「横」に、それぞれ「出」と「超」の二種があるとされています。「出」は、迷いによって生ずる苦悩からの脱出をはかって、やがてさとりの安楽に到達しようとする教えです。一方の「超」は、迷いの身のままに、一挙にさとりの境地に達しようとする教えです。
この「竪」「横」と「出」「超」とをそれぞれに組み合わせますと、四つに分類できるわけです。その第一は「竪出」ですが、永い永い厳しい修行によって徐々に仏のさとりに近づくと教えられている自力・難行道のことです。
第二は「竪超」ですが、強靭な菩提心によって修行に励み、一挙に仏のさとりを体得するという教えです。これももう一つの自力・難行道です。
第三は「横出」です。これは困難な修行によるのではなく、念仏によって一足飛びに浄土に往生して仏のさとりを得ようとする教えです。他力・易行道です。往生は阿弥陀仏の本願力、すなわち他力によるのですが、この場合は、自力によって他力にすがろうとする教えなのです。つまり自力の念仏です。
第四が「横超」です。これは一切のはからいから離れ、ひたすら『仏説無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の本願に帰依して、阿弥陀仏の浄土に往生させていただこうとする教えです。如来より賜っている信心、いただいている念仏です。
親鸞聖人は『尊号真像銘文』に「横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり」と述べておられます。(『真宗聖典』532頁)
「横」は「よこさま」ということですが、理屈に合わないことを「横」といいます。煩悩具足の凡夫を一挙に往生させたいと願われる如来の本願は、私たちの理屈に合うものではありません。私たちの理屈からすれば、懸命の修行によってこそ浄土に近づくということになります。
しかし私たちの理屈とは無関係に、迷いの大海を一挙に超えさせて、最高のさとりを得させたいと願われる、それが「横超」ということなのです。そして横さまに一挙に往生させたいと願っておられる、この「横超の大誓願」の意味を天親菩薩が『浄土論』によって顕かにしてくださったのです。
親鸞聖人は、「邪見憍慢の悪衆生」である凡夫にとって、自分の力によっては何一つ良い結果は得られないと見きわめておられます。そのような凡夫であるからこそ、この「横超の大誓願」のことわりを顕かにしてくださった天親菩薩の教えを喜んでおられるのです。私たちも、何とか、この教えを心から喜べる身になりたいのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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