正信偈の教え-みんなの偈-

往相の回向と還相の回向

【原文】
往 還 回 向 由 他 力
正 定 之 因 唯 信 心

【読み方】
おうげんこうりきる。
正定しょうじょういんはただ信心しんじんなり。


 曇鸞大どんらんだいは『浄土論註』という書物を著されました。インドの天親てんじん菩薩が『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』の註釈を作られて『浄土論』を著されましたが、その『浄土論』に対して、曇鸞大師がさらに註釈されたもの、それが『浄土論註』でありました。
 親鸞聖人は、「正信偈」に、曇鸞大師のことを「ほういん誓願せいがんあらわす」(ほういん顕誓願けんせいがん)と詠って讃えておられますが、報土である阿弥陀仏の浄土が開設されることになった原因も、すでに開設されているという結果も、さらには、私たちが浄土に往生することになる原因も、また私たちが間違いなく往生するという結果も、これらはすべて阿弥陀仏の誓願によることであること、そのことを曇鸞大師が『浄土論註』の中で顕かにされたのでした。
 また、曇鸞大師は、親鸞聖人が「往・還の回向は他力に由る」(往還おうげんこう由他ゆたりき)と詠っておられます通り、「往相おうそうこう」と「還相げんそうの回向」という、二種の回向についても教えておられるのです。
 私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土えどから浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。
 人が穢土から離れて浄土に往生するということは、「自利」(自ら利すること)の成就です。しかし「自利」の成就を果たすだけでは仏教とはいえないのです。「利他」(他を利すること)がなければならないからです。他の人びとが浄土に往生できるよう、穢土の人びとへのはたらきかけがなければならないのです。つまり、自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになること、それが仏教の根本の精神なのです。
 そもそも釈尊は、覚りを得て仏になられましたが、ご自分の覚りの境地に安住されることなく、世間の迷いの人びとのところに出向いて教えをお説きになり、人びとを覚りに導こうとされました。ここに「自利利他」が一つになった仏教の根本が示されているのです。
 このようなことから、「往相」と「還相」とが一つのこととして大切であるとしても、私たちぼんにしてみれば、自分の力では「往相」はもとより、「還相」も不可能なことです。私たちは、自分の往生の原因は自分では作れないのです。まして、自分の力でこの世間へのはたらきかけなどはとうてい不可能です。
 「往・還の回向」といわれています通り、「往相」も「還相」も、ともに阿弥陀仏の「回向」によることなのです。「回向」というのは、「振り向ける」という意味で、原因を作れない私たちに代わって、阿弥陀仏が原因を作ってくださり、その原因によって生ずる結果だけを私たちに「振り向けて」くださっているのです。
 曇鸞大師は、この「往相回向」も「還相回向」も、ともに私たちの自力によるのではなくて、「他力に由る」(由他力)と教えておられます。「他力」は、私たちが期待するとか、期待しないとか、そういうことにはまったくかかわりなく、一方的に私たち差し向けられている阿弥陀仏の願いによることなのです。「本願力ほんがんりき」といわれます。
 本願力の回向に由って、私たちに「往相」と「還相」とが実現するということは、とりもなおさず、私たちが浄土に往生して仏に成るということを意味します。それでは「往相回向」と「還相回向」とは、どのようにして私たちに実現するのでしょうか。
 それについて、曇鸞大師は、「正定の因はただ信心なり」(正定しょうじょう因唯信心いんゆいしんじん)と説き明かしておられます。すなわち、間違いなく浄土に往生して仏になることが確定するのは、それは、ただただ「信心しんじん」によることであると教えておられます。しかもその「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心なのです。
つまり、阿弥陀仏の本願に素直に従っておまかせする心なのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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