本願他力の伝統
- 【原文】
天 親 菩 薩 論 註 解
報 土 因 果 顕 誓 願
【読み方】
天親菩薩の論、註解して、
報土の因果、誓願に顕す。
曇鸞大師は、長寿の秘訣を学ばれ、意気揚揚と自信にあふれておられました。しかし、インドから中国に来ておられた三蔵法師、菩提流支との劇的な出遇いによって、身体的な寿命にこだわるご自分の愚かさに気づかれたのでした。そして、心を大きくひるがえされて、無量寿(長さとは関係のないいのち)を教える浄土の教えに深く帰依されたのでした。
その菩提流支三蔵は、インドの天親菩薩が書かれた『浄土論』を中国語に翻訳されました。そして曇鸞大師が、その注釈をお作りになったのです。
『浄土論』というのは、実は『仏説無量寿経』を註釈したものです。以前に見ていただきましたように(第40回)、天親菩薩は、自らの力によって悟りを得ようとするのは誤りであって、阿弥陀仏がすべての人を浄土に迎えいれたいと願われた、「本願」に率直に身をゆだねることこそが真実であることに気づかれたのでした。そのために、釈尊が阿弥陀仏の本願のことをお説きになった『仏説無量寿経』に対して註釈を施されたのでした。
その『浄土論』に対して、今度は、曇鸞大師が註釈をお作りになりました。これが『浄土論註』です。つまりそれは、『仏説無量寿経』の註釈の註釈ということになります。これについて、親鸞聖人は「天親菩薩の論、註解して」(天親菩薩論註解)と述べておられるわけです。
かつて龍樹大士が、仏道には難行道(難しい方法)と易行道(やさしい方法)とがあると教えられましたが、天親菩薩の『浄土論』こそが、誰もが浄土に往生することができるとする、易行道を勧めたものと、曇鸞大師は讃えておられるのです。そして、阿弥陀仏の本願に随順する他力の信心を明らかにされたのが天親菩薩であると説いておられるのです。
人は、自らが起こす煩悩によって、自らを悩ませ、苦しめています。しかも、悩み苦しみの原因が、自らが起こす煩悩にあることすらわかっていないのです。さらにまた、自分が現にそれほどにまで悩み苦しむ状態にあることにも気づいていないのです。目先の快楽に眼を奪われているからです。
釈尊は、このような私たちを哀れんで『仏説無量寿経』をお説きになられました。そのような者こそを助けようとされているのが阿弥陀仏の本願であることを教えられたのです。
釈尊がお説きになられた阿弥陀仏の本願他力の教えをさらに明らかにされたのが天親菩薩でありました。そして本願についての天親菩薩の教えをさらに明確にされたのが、曇鸞大師だったのです。
親鸞聖人は、釈尊と天親菩薩と曇鸞大師とが説き示された本願の伝統に、ご自分の位置を見定められて、自ら「釈親鸞」と名乗られたのです。
さて、親鸞聖人は、曇鸞大師のことを「報土の因果、誓願に顕す」(報土因果顕誓願)と讃えておられます。報土の因も果も、どちらも阿弥陀仏の誓願によることであることを、曇鸞大師が顕かにされた、といわれるのです。
報土とは、阿弥陀仏の浄土のことです。阿弥陀仏の浄土は、阿弥陀仏の本願が成就した世界です。願いが報いられた国土なのです。
阿弥陀仏の浄土が開設されることになった原因も、すでに開設されているという結果も、また、私たちが浄土に往生することになる原因も、また往生するという結果も、すべて阿弥陀仏の誓願によることなのです。
阿弥陀仏が仏になられる前は、法蔵という名の菩薩であられました。そのとき、法蔵菩薩は、自分の力では往生できるはずのない人が往生できる浄土を建立したいと願われました。そして、もしその願いが実現しないのであれば、自分は仏にはならないという誓いを立てられたのです。その法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたのです。ということは、願いと誓いがすべて報いられていることを意味しています。
凡夫の往生は、他の理由によるのではなく、ひとえに阿弥陀仏の大慈悲心である誓願によることなのです。その本願のはたらきを「他力」として顕かにして下さったのが曇鸞大師なのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
< 前へ 第51回 次へ >