正信偈の教え-みんなの偈-

浄土の教えに帰す

【原文】
三 蔵 流 支 授 浄 教
焚 焼 仙 経 帰 楽 邦

【読み方】
三蔵さんぞう流支るし浄教じょうきょうさずけしかば、
せんぎょう焚焼ぼんしょうして楽邦らくほうしたまいき。


 曇鸞大どんらんだいは、ろんしゅうのすぐれた学僧として、大乗仏教を深く学んでおられました。その名声は、中国の北方はもとより、南方にも広く響きわたっていたのでした。
 大師は、中国の人びとに仏教の大切な教えを正しく伝えなければならないという使命を強く感じられたのです。このため、志を立てられて、『大集経だいじっきょう』という、六十巻もある大きな、そして難解なお経の註釈の作成に取りかかられたのでした。
 ところが、あまりにも厳しく精を出して研究に打ち込まれたためか、病にかかられ、註釈の仕事を中断せざるを得なくなられたのです。この時、大師はすでに五十歳を越えておられました。大師は、仏法に対しても、また教えを学ぼうとしている中国の人びとに対しても、本当に申しわけない気持ちを強くもたれたのです。
 そこで、広大な仏法をきわめ、また『大集経』の註釈を完成させるには、健康な心身と長寿を得なければならないと大師は痛感されたのです。このため、まず神仙の術を学ぼうと心に決められました。
 当時、南方に、道教という宗教の指導者で、陶弘景とうこうけいという人がおりました。この人は、医学や薬学の大家でもあり、長寿の秘訣を教える仙人として有名だったのです。中国の北方におられた曇鸞大師は、はるばる南の陶弘景の所に趣いて、長生不老の術を学ばれたのでした。
やがて大師は、十巻からなる仙経、すなわち長生不老の術を説いてある道教の経典を陶弘景から授けてもらわれ、喜び勇んで北へ帰られたのです。
 途中、都の洛陽に立ち寄られました。都には、ちょうどインドから三蔵法さんぞうほうだい流支るしという僧が来ていて、お経の翻訳をしながら、中国の僧侶を教導していたのです。
 三蔵法師というのは、経蔵と律蔵と論蔵の三蔵を深く学び、それについて指導する僧のことです。「蔵」は「集めたもの」という意味で、経蔵はお経を集めたもの、律蔵は戒律についての文章を集めたもの、論蔵はインドで作られたお経の註釈を集めたものです。
曇鸞大師は、三蔵法師の菩提流支にお会いになりました。そして、誇らしげに、自分は長生不老の術を学んできたばかりであることを告げられたのです。そして、インドにこのような術はあるのかと尋ねられたのです。
 すると、菩提流支三蔵は、唾を吐き捨てて「何という愚かなことだ」とばかりに、叱りつけたのです。そして、『かん量寿経りょうじゅきょう』を授けて、阿弥陀仏と「無量寿」(長さに関係のないいのち)について教えたのでした。
 曇鸞大師は、この教えに触れられて、長生不老などというものは、愚かな欲望に過ぎないことに気づかれたのです。そして「こんなものがあるから、人は愚かな迷いを繰り返すのだ」とばかりに、大切にしておられた仙経を惜しげもなく焼き捨ててしまわれたのです。
 大師は、いのちを我がものと思い込んで、その安泰を願っていた愚かさに気づかれたのでしょう。たとい、百年や二百年の長寿を得たとしても、人はやがては死を迎えなければなりません。人は、不思議な縁によってこの世に生を享け、また、さまざまな縁に恵まれて生存するのです。そして、その縁が尽きれば、悲しいことではあっても、この世から去らなければならないのです。
 曇鸞大師は、菩提流支三蔵から授けられた『観無量寿経』によって、無量寿ということ、量と関係のない「いのち」のはたらき、そのことに気づかれたのでした。そして、無量寿仏、すなわち阿弥陀仏を念ずる念仏によって浄土に往生する信心を得られたのでした。
 そのあたりのことを親鸞聖人は『正信偈』に、「三蔵さんぞう流支るし授浄教じゅじょうきょう 焚焼仙経ぼんしょうせんぎょう楽邦らくほう」(三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき)と詠っておられるのです。すなわち、菩提流支三蔵が浄土の教えを授けられたので、曇鸞大師は、長生不老を教える仙経を焼き捨てて、楽邦、つまり阿弥陀仏の安楽浄土に往生する教えに帰依されることになられた、ということなのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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