曇鸞大師
- 【原文】
本 師 曇 鸞 梁 天 子
常 向 鸞 処 菩 薩 礼
【読み方】
本師、曇鸞は、梁の天子
常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。
「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができます。「総讃」と「依経段」と「依釈段」です。
初めの「総讃」は、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)という二句です。「帰命無量寿如来」も「南無不可思議光」も、どちらも「南無阿弥陀仏」という名号と同じ意味ですから、この二句は、無量寿如来、すなわち阿弥陀仏の願いによって、凡夫に与えてくださっている名号に対して、親鸞聖人が心から信順しておられるお心を表明された部分です。
次の「依経段」は、『仏説無量寿経』というお経に依って述べてある段落です。これは「法蔵菩薩因位時」から始まる四二句で、ここには、阿弥陀仏による、本願他力の念仏の意味が詳しく表明されています。
最後の「依釈段」は、七人の高僧の解釈に依って述べてある段落です。ここには、親鸞聖人のところにまで、念仏の教えを正しく伝えられた七人の高僧の徳が讃えてあります。インドの二人、中国の三人、日本の二人です。そしてこれら七高僧の教えが讃えられてあるのです。
これまで、この「依釈段」のうちの、インドの龍樹大士と天親菩薩、このお二人について述べてある部分を見ていただきました。今回から、中国の方々について見ていただくことになります。その最初が、曇鸞大師です。
曇鸞大師(四七六―五四二)は、人生の深い悩みのなかで、若くして出家されました。大師は、広く仏教を学ばれましたが、仏教の聖典ばかりではなく、中国の儒教や道家の教えをも広く深く学ばれたのでした。曇鸞というお名前は、釈尊の家系の姓である瞿曇(ゴータマ)から下の文字の「曇」をもらわれ、それに中国で古くからめでたい鳥とされてきた「鸞」をつけ加えたものであると伝えられています。
曇鸞大師が仏教を学び始められたころ、中国では、インドの龍樹大士の教えが盛んに研究されていました。その百年近く前に、龍樹大士が書き残された『中論』『十二門論』『大智度論』と、龍樹大士の直弟子の聖提婆が書いた『百論』が中国語に翻訳されていたのでした。これら四つの論は、いずれも「大乗」の精神を高らかにかかげ、その精神の根幹となる「空」の思想を大成させたものです。
「大乗」というのは、「偉大な教え」ということで、一言でいうと、他の人びとが救われることが自らの救いとなるという教えです。また「空」というのは、あらゆるものごとへのこだわりから離れるということです。
もっぱらこの四つの論を依りどころとして仏教を学ぶ人びとの集まりを「四論宗」といいますが、曇鸞大師はこの四論宗に属して、大変すぐれた学僧として広く尊敬されておられたのです。この場合の「宗」は、今の「宗派」という意味ではなくて、「学派」というほどの意味に使われていた言葉です。
その当時の中国は、約一七〇年にわたって南北に分断されていました。北から侵入してきた異民族が北方を支配し、南に逃れた漢民族が南方に王朝をたてていたのです。
曇鸞大師は北方の北魏という国におられたのですが、その学僧としての名声は、遠く南の人びとにも知られていたのです。
そのころ、南には梁という国が栄えていました。文学や芸術など、文化の面では北方とは比べものにならないほど発展していたのです。梁の皇帝の武帝(五〇二―五四九在位)は、仏教を手厚く保護するとともに、自らも熱心に仏教を学んだ人だったのです。そして、遠く北魏におられる曇鸞大師を深く敬っていたのです。
このあたりのことを、親鸞聖人は、「正信偈」に「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼」(本師、曇鸞は、梁の天子、常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる)と述べておられるわけです。
すなわち「私たちの師である曇鸞大師の場合、南の梁の天子である武帝が、いつも、曇鸞大師がおられる北方に向かって、曇鸞大師を菩薩として敬って拝んでいた」ということです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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