善導大師
- 【原文】
善 導 独 明 仏 正 意
【読み方】
善導独り、仏の正意を明かせり。
親鸞聖人は、「正信偈」に、七人の高僧がたのお名前をあげて、その方々の徳を讃えておられます。この七高僧が、間違いのない念仏の教えを、親鸞聖人のところにまで、正しく伝えてくださったことを歓んでおられるのです。
七高僧のうち、インドに出られた龍樹大士と天親菩薩については、すでに見ていただきました。次に、中国の曇鸞大師と道綽禅師のお二人についても、これまでに見ていただいたところです。
中国に出られた三人目の高僧が善導大師でありましたが、この善導大師について、親鸞聖人は、どのようなことを私たちに教えておられるのか、今回から、それをうかがって参りたいと思います。
善導大師(六一三―六八一)は、若くして出家され、はじめ『維摩経』や『法華経』などのお経を学ばれました。のちに、たまたま『観無量寿経』に出遇われ、このお経に説かれている念仏の教えを深く学ばれたのです。
しかし、念仏といっても、それは、古くから中国の仏教界で行われていた、修行としての念仏だったのです。心の雑念を払いのけて、心を純粋に保って集中させるという、三昧の行です。この行によって、阿弥陀仏のお姿と阿弥陀仏の極楽浄土のありさまを心に観察する「観想の念仏」だったのです。のちに善導大師が教えられた「称名の念仏」とは、まるで異なる念仏でありました。
善導大師は、このような「観想の念仏」の修行に懸命に励まれて、やがてある一定の境地を体験されたと伝えられています。しかし、この「観想の念仏」に強く疑問を感じ取られたようでした。
その頃、遠くの玄中寺というお寺に道綽禅師がおられました。道綽禅師は、主として『観無量寿経』によって、念仏の教えを広めておられたのですが、そのことを、善導大師は伝え聞かれたのでした。そこで大師は、さっそく、厳しい冬の難路をさまよいながら、玄中寺に向かわれたのでした。
玄中寺といえば、その昔、曇鸞大師が、本願他力の教えを説いておられたところでありました。曇鸞大師が亡くなられて七〇年ほどのちに、『涅槃経』の学僧であられた道綽禅師が、旅の途中でたまたま玄中寺に立ち寄られ、曇鸞大師の徳を讃えた石碑の文をお読みになり、曇鸞大師の教えに深く感銘を受けられたのでした。そして、これまでの思いを翻して、深く浄土の教えに帰依されたのでした。そして道綽禅師は、曇鸞大師の徳を慕って、そのまま玄中寺に住みついておられたのでした。
その玄中寺を訪ねられた善導大師は、道綽禅師から親しく『観無量寿経』の講説をお聞きになり、本願他力の念仏の教えに目覚められたのです。それは、道綽禅師が八十歳、善導大師の二十九歳のときであったと伝えられています。
その後、善導大師は、唐の都の長安に移られ、光明寺というお寺を中心に、「称名の念仏」の教えをお説きになり、広く民衆を教化されたのでした。善導大師の教えは、自己の愚かさを厳しく自覚させ、それ故にこそ、阿弥陀仏から回向されている他力の「称名の念仏」によって浄土に往生することを深く歓ぶという、とても情熱的な教えであったのです。
中国には、浄土の教えに三つの流れがありました。その第一は、廬山流といわれているもので、廬山の東林寺におられた慧遠法師(三三四―四一六)が、多くの同志とともに、阿弥陀仏像の前で修行しておられた自力の「観想の念仏」の伝統でした。第二は善導流で、今の、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師と次第して伝えられた他力の「称名の念仏」です。そして第三は慈愍流の念仏で、慈愍慧日(六八〇―七四八)という三蔵法師が唱えられた念仏と禅とを融合させた念仏禅でした。
このうち、日本に伝えられて栄えたのが、善導流の浄土教だったのです。日本の法然上人(一一三三―一二一二)が、「偏依善導一師」(偏に善導一師に依る)と宣言され、それが親鸞聖人に受け継がれたのでした。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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