金剛の信心
- 【原文】
開 入 本 願 大 智 海
行 者 正 受 金 剛 心
【読み方】
本願の大智海に開入すれば、
行者、正しく金剛心を受けしめ、
親鸞聖人は、多くの方々が『観無量寿経』を学んでこられたけれども、善導大師、ただお一人だけが、仏の正しいお心を明らかにされた(善導独明仏正意)と述べて、善導大師を讃えておられます。
その善導大師は、自分の努力によって心を静めて浄土を見つめようとする人(定善)も、散乱した心ながらも善を修めることによって浄土を求める人(散善)も、さらに、五逆とか十悪という罪悪を犯す人びとにも、等しく哀れみの心を向けられたのでした(矜哀定散与逆悪)。
そして善導大師は、本願によってすべての人に与えられている「南無阿弥陀仏」という他力の名号が、定善や散善、五逆や十悪などの人びとの信心の因となり、阿弥陀仏の智慧の光明が信心の縁となることを顕らかになさったのでした(光明名号顕因縁)。
これに続けて、親鸞聖人は、善導大師の教えについて、「開入本願大智海 行者正受金剛心」(本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ)と、詠っておられるわけです。
「本願の大智海」は、本願によってはたらく、海のように広く深い仏さまの智慧です。『正信偈』には、「本願海」という言葉があります(『勤行集』8頁、『真宗聖典』204頁)。「本願海」と「大智海」は、慈悲と智慧の関係です。
また、「群生海」という言葉もあります(前掲に同じ)。本願の海、大智の海、それは同時に、五濁の悪時に生きている私たち群生の海でもあるのです。私たちは、本願の海、大智の海でなければ、生きられない生きものなのです。
海は、どのような源から流れ出る川の水も、また、どのような所を流れて下ってきた水も、みな同じ塩味にしてしまうのです。そして、海は、生きものを養い育てるところなのです。生きているものでなければ、海にはとどまることができないのです。
親鸞聖人のご和讃に、「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり」という一節があります(『真宗聖典』493頁)。不可思議な名号という海水は、五逆を犯す人や、仏法を謗る人のような死骸は留め置かないのだけれども、そのような悪であっても、すべての川の水が海に注いで一つの塩味になるように、すべて等しく、名号のすぐれたはたらきによって、信心をいただいて、活き活きと生きてゆけるようになると、教えておられるのです。
「開入」は、開示帰入の省略で、見失っているものが、開かれて示され、それに立ち戻らされて迎え入れられる、ということです。「定善や散善、五逆や十悪の人であっても、開き示された本願による大智に立ち戻らせられたならば」という意味になります。
そうすると、どうなるかということですが、この「行者」、すなわち、定善・散善・五逆・十悪などの人も、「正受金剛心」(正しく金剛心を受けしめ)とありますように、間違いなく、金剛のような堅い信心を受け取らせていただけるのです。
「金剛」は、ダイアモンドで、もっとも硬いものを喩えています。自分の思いによって起こす自力の信心は、もともと脆くて、壊れやすいものです。しかし、阿弥陀仏の本願の力によって施し与えられている他力の信心は、金剛のように硬く、壊れることがないのです。
「開入本願大智海」という句は、その前の句につなげて、「定散と逆悪とを矜哀す。光明・名号、因縁を顕して、本願の大智海に開入せしむ。行者、正しく金剛心を受けて、・・・」と読まれることがあります。これによりますと、「光明と名号が因縁となることを顕らかにする」ことによって、定散と逆悪とを「本願の大智海に開入させる」という意味になります。
いまは、親鸞聖人のご指示にしたがって、「定散と逆悪とを矜哀して、光明・名号、因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ」と読みました。「本願の大智海に開入するならば」「行者は金剛心を受けさせられることになる」という意味になります。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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