慶喜の一念
- 【原文】
慶 喜 一 念 相 応 後
与 韋 提 等 獲 三 忍
即 証 法 性 之 常 楽
【読み方】
慶喜の一念相応して後、
韋提と等しく三忍を獲、
すなわち法性の常楽を証せしむ、といえり。
親鸞聖人は、さらに続けて善導大師の教えを紹介しておられます。
人は、自分の力を頼りに、心を静める修行をして浄土を見つめようとする場合があります(定善)。また、散乱した心ながらも善を修めることによって浄土を求める場合があります(散善)。さらにまた、五逆とか十悪という悪を犯す場合があります。
しかし、どのような場合、どのような人であろうと、阿弥陀仏の智慧の光明の輝きが、それらの人びとにとって、真実の信心に目覚める「縁」となり、阿弥陀仏の大慈大悲によって誰にも等しく差し向けられている「南無阿弥陀仏」という名号が、真実の信心の「因」となると、善導大師は教えられるのです(光明名号顕因縁)。
そして、誤って、どのような方向に向かってしまった人であろうと、本願の智慧の輝きのなかに呼び戻されるのであるから(開入本願大智海)、その人は、まさしく金剛のように硬い他力の信心を受け取らせてもらえるのである(行者正受金剛心)と、教えておられるのです。
親鸞聖人は、善導大師の教えについて、「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍」(慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲)と続けておられます。
真実の信心に目覚めさせてもらった人の一念の喜びの心が、本願を発された阿弥陀仏のお心に合致(相応)するならば、その人は、韋提希夫人が得たのと同じ「三忍」を受け取ることになる、と教えられるのです。
『仏説無量寿経』に、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」(『真宗聖典』44頁)と説かれていますが、ここでは、それを「慶喜の一念」と述べてあるわけです。「南無阿弥陀仏」をいただき、本願に出遇った人の喜びです。
本願による名号、本願による信心を喜べる人は、どうなるのかということですが、それは、あの韋提希のようになる、と言われているのです。
韋提希夫人は、敬愛する夫である頻婆娑羅王が、事もあろうに、自分が産み育ててきた王子の阿闍世によって死に至らしめられ、その上、それを助けようとした自分自身も宮殿の奥深くに幽閉されるという悲しみに遇ったのです。彼女は、苦悩の中から釈尊に教えを請うのでした。その求めに応じて説かれたのが『仏説観無量寿経』でありました。
『仏説観無量寿経』によりますと、韋提希は、釈尊のみ教えによって、阿弥陀仏と観音・勢至の二菩薩を拝むことができて、歓喜の心を生じ、「無生法忍」という悟りを得た、とされています(『真宗聖典』121頁)。
ここに説かれる「無生法忍」(真理を確信する境地)を、善導大師は三つに分けて「三忍」とされたのです。「忍」は「認める心」というほどの意味です。
「三忍」は、喜忍・悟忍・信忍の三つです。喜忍は、信心によって生ずる喜びの心、悟忍は、智慧の光明によって目覚めさせられた心、信忍は、本願を疑うことなく信ずる心です。そして、この「三忍」が、一念の信心のなかに同時にはたらくとされているのです。
阿弥陀仏の本願を心から喜べる人は、韋提希夫人がそうであったように、現在の生活のなかで、この「三忍」を得ることになると、善導大師は教えられるのです。
そして、そのことによって、「即証法性之常楽」(すなわち法性の常楽を証せしむ)と言われていますように、ただちに、真実(法性)こそが常に変わることのない、究極の安楽であることを会得することになる、と教えておられるのです。
「常」は、一定していて変わらないことです。「楽」は、苦に対する楽ではなくて、私たちが認識する苦と楽をともに超えた安楽のことを言っておられるのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
< 前へ 第65回 次へ >