源信僧都
- 【原文】
源 信 広 開 一 代 教
偏 帰 安 養 勧 一 切
【読み方】
源信、広く一代の教を開きて、
ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
これまでに、何度か申し述べてきました通り、親鸞聖人の「正信偈」は、古くから、大きく三つの段落に分けて学ばれてきました。
第一の段落は「総讃」といわれ、冒頭の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という二行がそれに当たります。
第二は、「依経段」で『仏説無量寿経』というお経に依って述べてある段落です。「依経段」には、まず「法蔵菩薩因位時」という句から始まる「弥陀章」があります。ここには、阿弥陀仏の本願のいわれが述べられています。次に「釈迦章」があります。「如来所以興出世」という句から始まる段落です。ここには、『仏説無量寿経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを教えておられる釈尊の徳を讃えてあります。そしてその次に「依経段」の結びに当たる「結誡」といわれる部分があります。「弥陀仏本願念仏」から始まる四行です。
第三の段落は、「依釈段」です。これは、インド・中国・日本に出られた七人の高僧がたの、本願念仏についての教えの解釈にもとづいて述べてある部分です。ここに、親鸞聖人は、七高僧の教えの要点をかかげられ、七高僧の徳を讃嘆しておられるのです。
このうち、インドの龍樹大士・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師について述べられているところをすでに見てまいりました。今回からは、日本の源信・源空というお二人について、親鸞聖人が讃えておられるところに入るわけです。
その最初、六人目の高僧は、源信僧都というお方です。源信僧都(九四二~一〇一七)は、比叡山の恵心院におられましたので、恵心僧都ともお呼びしています。
今の奈良県に誕生され、十三歳のときに出家して比叡山に上られ、そこで天台宗をはじめ、諸宗の教義を究められたのでした。そして、並はずれた学識によって、広く名声を高められたのでした。
これによって、朝廷から、「僧都」という僧侶の高い位が授けられようとしたのですが、これを固辞して受けられませんでした。しかし、世の人びとは、このお方こそが「僧都」とお呼びするにふさわしい人であるとして、敬意をこめて、源信僧都とか、恵心僧都とか、そのように尊称するようになったのでした。
源信僧都は、世の名刹を避けて、比叡山の奥深く、恵心院に隠棲されて、仏教の真髄を究められたのでした。ところが、諸教を広く深く学ばれるなかで、末世の
凡夫にふさわしい教えは、念仏往生の教え以外にはないことに気づかれ、浄土の教えに帰依されることになったのでした。それは、源信僧都の四十四歳のときでありました。
念仏の教えを教え広めるために、多くの著作をのこされましたが、中でも、『往生要集』は、多くのお経の文などを集めて、仏教全体の帰するところは、結局は念仏往生の教えしかないことを明らかにされたのでした。これが、日本の浄土教の源流となり、のちに法然上人による浄土宗の開宗に大きな影響を与えたのです。
このような源信僧都について、親鸞聖人は、「広く一代の教を開きて」(広開一代教)と讃えておられるのです。「広く一代の教えを開かれた」というのは、釈尊がご生涯に説かれた教え、すなわち仏教の全体ですが、その真髄を広く世に公開されたということです。
そして、「ひとえに安養に帰して、一切を勧む」(偏帰安養勧一切)と言われていますのは、源信僧都が、釈尊の一代の教えを広く深く究められた上で、ひとえに、安養世界、つまり阿弥陀仏の浄土に往生する念仏の教えに帰依するようになられたことをいうのです。
これによって、『仏説無量寿経』に説かれている念仏往生の教えこそが、さまざまなすがたをとっている仏教全体の肝要の教えであることが示されているわけです。
さらに、源信僧都は、多くの著作によって、ご自分の信心を世の一切の人びとに盛んに勧められたのでした。世の一切の人びとが、釈尊のご本意に立ち戻り、念仏の教えに目覚めてほしいと願われたということなのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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