共に心を同じくして
- 【原文】
道 俗 時 衆 共 同 心
唯 可 信 斯 高 僧 説
【読み方】
道俗時衆、共に同心に、
ただこの高僧の説を信ずべし、と。
親鸞聖人は、「正信偈」の「依経段」に、阿弥陀仏が本願を発された由来について述べておられました。それは、『仏説無量寿経』に基づいて、本願が私たちに対して現にはたらき続けている事実を教えておられるのでありました。
さらに親鸞聖人は、釈尊が『仏説無量寿経』をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私たちに知らせるために、わざわざこの世間にお出ましになられたことを、歓喜とともに述べておられたのでした。
次の「依釈段」では、インド・中国・日本に出られた七人の高僧がたのお名前とその事績について教えておられました。そして、これら七高僧が出られて、本願念仏の教えを正しく伝え、本願のはたらきに目覚めるよう促してくださったからこそ、仏教の真髄の教えが親鸞聖人ご自身のところに誤りなく伝えられたことを、感銘深く述べておられるのでありました。
釈尊がお説きになられた『仏説無量寿経』の真実を、七高僧が誤りなく親鸞聖人のところに伝えられたということ、それは、何を意味するかと言いますと、釈尊と七高僧が、親鸞聖人を通して、「極濁悪」である私たちを阿弥陀仏の本願に目覚めさせようとしてくださったということなのです。
そのことを私たちは、前回学んだ「弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう」(弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪)という二句からうかがうことができると思うのです。
そのために、親鸞聖人は、この句に続けて、「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」(道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし)と述べておられるのです。
「道俗」は、「僧侶と僧侶でない人」ということです。つまり「僧侶であろうと、僧侶でなかろうと」ということです。阿弥陀仏の願いが向けられている人びとであり、共に本願による念仏をいただくすべての人びとのことです。親鸞聖人は、この「道俗」のことを別に「御同朋」(『真宗聖典』六三九頁)、「御同行」(『真宗聖典』六〇八頁)と呼んでおられます。次の「時衆」というのは、「その時々の人びと」ということですから、親鸞聖人の時代の人びとはもちろん、今の私たちをも含んでいるわけです。
「共同心」(共に同心に)ということは、すべての人びとが、互いに、あれこれと思いをめぐらせるのではなく、心を一つにするということです。親鸞聖人は、ここで、互いに心を一つにするべきであると教えておられるのですが、それは、親鸞聖人ご自身と同じ心になってほしいと、私たちに願ってくださっているお言葉としてお聞きすることができると思うのです。
その親鸞聖人が私たちに「ただこの高僧の説を信ずべし」と教えておられます。これは、他の人びとの教えではなくて、ただただ七高僧の教えを信ずるべきであると教えておられるのです。しかしそれは、七高僧が、並外れて勝れた方々だからということだけではないと思います。何よりも、この高僧がたは、阿弥陀仏の本願の通りに生きられた方々だからなのです。
この高僧がたの教えによって、親鸞聖人は、ご自身が、本願の念仏に出遇うためにこの世に生まれて来られたことを身をもって体感されたのではないでしょうか。そして、他力の信心に生きる歓びを教えてもらわれたのではないでしょうか。そのようなご自分と同じようになってほしいと、親鸞聖人は私たちに願ってくださっているのではないでしょうか。
「高僧の説を信ずべし」と言われていますが、それは、七高僧の教えを鵜呑みにするということではないでしょう。親鸞聖人がそうであられたように、この私が、自分が邪見憍慢の悪衆生であることをつくづくと思い知らされるときに、何かが始まると思われるのです。
その私に対して、すでにして、何とかして救いたいという本願が向けられているという事実があります。そして、その事実に気づいた感動が、誤った方向に向かわないように教えてくださったのが七高僧ですから、七高僧の教えを素直に受け取られた親鸞聖人と同じようになってほしいと、私は願われているのだと思うのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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