まとめ
前回までのところで、「正信偈」の各句の教えについて、一通りのことを見ていただきました。今回は、その全体について、少し整理してみたいと思います。
「正信偈」は、詳しくは「正信念仏偈」(正しく念仏を信ずる偈)といわれます。全部で一二〇句からなる偈文ですが、古くから、これを三つの段落に分けて学ばれてきました。
その第一の段落は、「総讃・帰敬」と呼ばれている段落で、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句がこれにあたります。この二句は、どちらも「南無阿弥陀仏」というお名号を別のお言葉で表されたもので、ここには、正しく念仏を信ずるということは、どのようなことであるのか、親鸞聖人が、その教えを述べられるに先立って、まず、阿弥陀如来への帰依信順のお心を表明しておられるのです。
第二の段落は「依経段」です。『仏説無量寿経』(釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経)に依って述べてある段落です。この「依経段」は、さらに細かく三つの部分に分けて見られています。
最初の部分は「弥陀章」といいまして、三句目の「法蔵菩薩因位時」から「必至滅度願成就」までの十八句です。ここには、お経にもとづいて、阿弥陀仏と、阿弥陀仏の本願のいわれについて述べておられるのです。
第二の部分は「釈迦章」といわれていますが、二十一句目の「如来所以興出世」から「是人名分陀利華」までの二十句です。ここには、釈尊がこの世間にお出ましになられた意味と、『仏説無量寿経』に説かれてある釈尊のみ教えに接する私たちの心構えが教えてあります。
第三の部分は「結誡」で、「依経段」の結びにあたる部分です。四十一句目の「弥陀仏本願念仏」から「難中之難無過斯」までの四句です。ここには、私のような邪見・憍慢の悪衆生にとっては、阿弥陀仏の本願によって与えられている念仏を、信じて持つことは、甚だ困難なことであると誡めておられるのです。世の中には、困難なことがさまざまあるけれども、念仏を正しく信じて持つことは、困難なことの中の困難で、これ以上の困難なことはないと、親鸞聖人は、言い切っておられるのです。まさに私にとっては、絶望するしかない誡めです。
ところが、その後が重要なのです。つまり、第三の段落の「依釈段」です。
「依釈段」は、七人の高僧による、本願の念仏についての解釈が示されている段落です。ここには、インドの龍樹大士、天親菩薩、中国の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の源信僧都、源空(法然)上人、この七人の高僧がたが、どのようなことを教えてくださっているのか、それを詳しく述べておられます。(この段落も、さらに細かく九つの部分に分けられますが、詳細は省略させていただきます)。
邪見・憍慢といわれますように、身勝手に自我を尊重して思い上がっている私にとっては、本願によって、私の思いを越えて、私に与えられている念仏を、素直に信じて持つことは、絶望的に困難なことであると、まず指摘されてありました。
だからこそ、そのような私のために、インド・中国・日本に、七人の高僧が出てきてくださって、「顕大聖興世正意」(大聖興世の正意を顕し)とありますように、釈尊がこの世間にお出ましになられた正しくそのお心を顕かにしてくださっているのです。そして、「明如来本誓応機」(如来の本誓、機に応ぜることを明かす)とありますように、何としても救ってやりたいと願ってくださる阿弥陀如来の誓願が、そのような私だからこそ、私に相応しく、私のためであることを、七高僧は明らかにしてくださっているのです。
最後のところに「弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪」(弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう)とありますが、釈尊が説かれたお経の教えを広められた龍樹・天親の二菩薩と、真の宗を明らかにしてくださった祖師がたは、どうしようもない極濁悪の私を救おうとしてくださっているのだから、「唯可信斯高僧説」(ただこの高僧の説を信ずべし)として、親鸞聖人は、ただただ、これら七高僧の教えに素直に従うしかないと、私に勧めてくださっているのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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