2000(平成12)年 真宗の生活 1月 【真宗の生活】
<縁を生きる>
『蓮如上人御一代記聞書』に次のような言葉があります。
「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々
(第一五七条・真宗聖典八八三頁)
ここでの「仏法」とは念仏の教えを指します。念仏の教えを聞くことを生活の中心としなさい、ということでしょう。「世間」とは、私の思い(分別)のことであります。よく「世間体が悪い」といいますが、念仏の教えに聞きますと、その世間体は私の思いの投影にすぎないと教えられます。世間体がどこかに事実として存在するわけではないのですから。「私の思いに立つのではなく、念仏の教え(仏さまの智慧)をこそ中心として生活をしていきなさい。そうすれば、生活が実っていく」と蓮如上人はおっしゃっているのです。
ですから、「真宗の生活」という言葉を聞くと、ここにそのありさまが具体的に述べられてあるといえると思います。
さて、私どもの日常のありさまは、一体どうなっているのでしょう。
生活は幸せを求めてということになるのではないでしょうか。そしてその幸せというのは、さらに具体的に一言でいうなら、「私の思いどおりにしたい」ということでしょう。
先日もお墓の建碑式がありましたが、式の終わった直後、雨が降り出しました。そのとき、墓石業者の言った言葉が大変印象的でした。「ああよかった」というわけです。建碑式の最中に降り出したら大変だったが、終わったあとなので、もうあとは降つても自分たちには関係ないというわけです。
雨は私たちの思惑に関係なしに降るのですが、都合がよければいい雨ですし、都合が悪ければ悪い雨というわけです。そして「雨が降らないように」とか「降るように」とか、希望をしていくわけです。それが人間として当たり前の行為行為であるかのように。これが当たり前となれば、私の思い(良い悪いという私の評価)が本当で、事実、目の前で起こつていること(雨が降っていること、あるいは降っていないこと)を事実として認められなくなります。
目の前に起こっていることは事実であって、それを良い、あるいは悪いとしているのは「私の評価」であると気づくことができれば、評価に固執することは、間違いであることになります。田植えの前の雨は「恵みの雨」なんていうのですから。雨一般が悪いのでも良いのでもないのです。
そうするとどういうことか。生活のうえに起こってくることは、私にとって縁という意味があることになります。事実にかえる縁(条件)という意味での。
「真宗の生活」といっても、何か特別の生活があるのではないでしょう。真宗は聞法聞法につきるといわれてきました。その聞法は「真理の一言」(『楽邦文類』真宗聖典一九九頁)といわれる南無阿弥陀仏のいわれを聞くことであります。その時、わが思い(評価)が仮なるものであり、まこと(真実)ではありえないこと、そこで、わが思いは立脚地とはなりえないことに気づかされるのです。そこからはじめて、生活はわが思いどおりになるとき、意味があるのではなく、まこと(真実)を知らされていく貴い縁であるという意味が回復されるとき、初めて意味のある生活が始まるといえるのです。
『真宗の生活 2000年 1月』【真宗の生活】「縁を生きる」