2000(平成12)年 真宗の生活 7月 【本尊】
<真のよりどころ>
本尊とはほんとうに尊いもの、真に敬うことのできるものという意味です。たとえば、外国で入国手続きのとき、あなたの宗教は何ですかと聞かれることがあります。それは一応、所属している宗教を聞かれているのでありますが、実は、「あなたの精神は何をよりどころとして生きているのですか」と聞かれているのです。つまり精神の問題です。精神の究極的なよりどころ、これを親鸞聖人は「畢竟依畢意依」といわれます。この「畢竟依」の問題が真宗における本尊の問題です。
最近、Aさんご夫妻が新築マンションを購入され、いままでいくらか聞法歴もある方々でしたので、お内仏を安置することにしました。無宗教の人ぴとがふえた現代では、新築の家に仏壇をというと怪訝な顔をされる方すらおられるようです。しかし、Aさんご夫妻はある法話で、お内仏を安置し本尊を荘厳することによって初めてハウスがホームになるのだということを聞いて感動した経験があったからです。お子さんも成人して就職され、大人三人がそれぞれの仕事をかかえて、なんとなくバラバラで、家族としてのまとまりにいささか不安をいだいていた矢先だったので、新居をきっかけにして、お互いのこころのよりどころと結びつきになるものを求めていたということもあります。本尊は一人ひとりのこころの中に生きてはたらいているものですが、それを外に形をとってあらわすことによって、みんながこころを寄せ合っていくことができるのです。いまでは朝、誰となく、手を合わせてから出かけるのだそうです。
真宗では本尊を木像や絵像として色や形をもってあらわす場合と、名号すなわちことばであらわす場合とがあります。南無阿弥陀仏ということばが本尊になるというのは、真宗のおしえからのみ出てくるのです。なぜなら、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏を信ずる信心の表白でありますが、真宗の教えではその信心も阿弥陀仏から廻向されたものであるからです。したがつて、阿弥陀仏の慈悲と智慧がこの〈わたくし〉に届き、いままさに生きてはたらいてくださつているということをあらわしているのが南無阿弥陀仏です。いいかえれば、本尊としての南無阿弥陀仏のところには、阿弥陀仏の慈悲と智慧が生きてはたらいていると同時に、そのはたらきにまかせ、往生浄土の道の決定した罪悪生死の凡夫としての〈わたくし〉が二重になって存在している。二つの絶対的に異質なるものが、信心では一つとなっている。そのすがたが南無阿弥陀仏であります。その信心が開かれれば、木像も絵像も名号もともに南無阿弥陀仏の象徴としていただくことができます。
南無阿弥陀仏は、ほとけさまに往生浄土の一切一切をおまかせするということでありますが、それは真のよりどころがはっきりしたということであり、それはまた信心の行者の自立のすがたでもあります。
『真宗の生活 2000年 7月』【本尊】「真のよりどころ」