2000真宗の生活

2000(平成12)年 真宗の生活 8月 【おぼん】

(われ)にかえる>

なつかしいふるさとに帰るとき、「おぼん」がそういう時節(じせつ)として定着(ていちゃく)しています。しかし、たとえ車の大渋滞(だいじゅうたい)にまきこまれても帰っていく故郷(こきょう)に、人びとはいったい何をもとめるのでしょうか。田舎(いなか)()らすわたしには、少々、理解しにくいことでした。仕事に追われ、時間におわれる(つと)(にん)たちが、そういう(いそが)しい日常から、ふと一人のにんげんにかえるときが、この「おぼん」というときであったりもする。そういうことであるとすれば、ふるさとにかえることは、「(われ)にかえる」とき、つまり自分自身を見つめ直す、貴重(きちょう)なときであるともいえます。

おぼんには、毎年帰ってきていた友人が、その年、帰って来ませんでした。彼の家でいつのまにか恒例(こうれい)になっていた、ささやかな同窓会が開けない。そう残念がっていたら、ひとり暮らしの彼の母親からお(まね)きの電話が入りました。

「いつものようにやりましょう」

酒とビールをもって、勝手のわかった他人の家へあがりこみます。とはいえ、血のつながらない母親と息子たちは、()れながら挨拶(あいさつ)をしたものでした。
酒が入るにつれて、母親の気持ちと、息子たちの言いぶんが衝突(しょうとつ)します。けれども、ひとの母親だから遠慮なく言える、ということもあるのですね。

「親の願いは、みんな変わらないのよ」
「わかっちゃいるけど、やめられません」

親のこころ、子しらず-そういう我にかえったわたくしのおぼんになりました。

『真宗の生活 2000年 8月』【おぼん】「我にかえる」