2001真宗の生活

2001(平成13)年 真宗の生活 4月 【浄土】

<死んだらみんな浄土に往くの?>

「死んだらみんな浄土に()くんですか?」。

あるご門徒さんからの質問です。しかし親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、「仏心(ぶっしん)光明(こうみょう)()雑行(ぞうぎょう)行者(ぎょうじゃ)照摂(しょうしょう)せざるなり」と言われます。念仏しない人、念仏の信を()ていない人は浄土には生まれません。浄土に生まれる(いん)をいただいていないからです。

物心もつかないお子さんを亡くした親御(おやご)さんは、いったい自分の子どもはどこへ行たのかと思い(わずら)います。暗い世界で迷っていないか、(さみ)しい思いをしてはいないか、と。でも実は、死んだ子が暗い世界で迷っているのではありません。人生の光を失い、暗くやりきれない寂しさのうちにあるのは、子を亡くした親の心の方なのです。
死苦、愛別離苦(あいべつりく)はこの世において()けられない道理ですが、私たちはそれを受け入れることができません。だから、死んだ後にも、どこか死も苦しみもない理想の世界で愛する人と再び出会えることを(せつ)に願います。そして、この死ねない、死なせられない苦しみの心が輪廻転生(りんねてんしょう)の世界を造り出すのです。

亡くなった子は、生まれてきたところ、無為(むい)の世界に帰りました。しかし、私たちの分別心(ぶんべつしん)は、この「色もなく言葉も()えた」世界を想像することも、意欲することもできません。浄土は、私たちをこの無為の道理に「めざめ」させようとする仏の智慧(ちえ)慈悲(じひ)より生じた(がん)の世界であり、念仏の信によって見いだされる世界です。私たちがこの悲しみのままに念仏し、自らの迷いの心を深く見つめつつ、大悲の呼びかけに心を開き、そこに自身の帰るべき場所を見いだすとき、そこに発起(ほっき)せしめられた願生心(がんしょうしん)相応(そうおう)して浄土はあるのです。そして一切が、念仏のご縁となってくださった浄土の諸仏(しょぶつ)として(あお)がれてくるとき、その諸仏のなかにあるわが子の微笑(ほほえ)む姿にも出会えるのでしょう。

『真宗の生活 2001年 4月』【浄土】「死んだらみんな浄土に往くの?」