帯広和暢会の魅力
雅楽の夕べに出仕された和暢会の皆さん。
雅楽の夕べに出仕された和暢会の皆さん。

「帯広和暢会」は、北海道教区第17組と第18組の僧侶が構成する有志の雅楽会です。現在の会員は20名以上で、定期的に帯広別院に集まって習礼を重ねており、特に別院報恩講の直前には3日間に亘って専門家の指導を受けておられます。

会員の顔触れは若い方が多く、20代から30代の若者が多くを占めています。和暢会に集う若者の雅楽に対する意識は極めて高く、先人の技を少しでも吸収しようと、習礼に集中する彼らの眼差しからは緊張感が伝わってきます。そして、先輩である住職らが若者の意欲を受けとめ、単なる助言指導のような姿勢で関わるのではなく、ともに学びあっていく仲間として関わり合おうという雰囲気を作っています。

どのようにして、このような環境が成立しているのか、その背景には、和暢会の発足と再興に掛けた先達の苦労と、先達から受けた恩を次世代へと返していく「連続無窮」の関係がありました。

「和暢会」の発足と再興の歴史
ある方は和暢会の雅楽を聞いて「CDと見まがうほどの素晴らしさ」と評されていたそうです。
ある方は和暢会の雅楽を聞いて「CDと見まがうほどの素晴らしさ」と評されていたそうです。

和暢会は、1952年3月に、北海道教区第17組の有志数名が帯広別院の協力を得て発足しました。太平洋戦争直後、戦後復興の最中で生活することだけでも苦慮するような時代。その中で和暢会は誕生したのです。

発足当時の会員は僅か8人。現在の半数に満たない人数でした。しかし、彼らは努力を惜しみませんでした。コピーなどない時代、それでも雅楽をやりたいという彼らの情熱は、寸暇を惜しんで譜面を書写することに傾けられました。

そして、当時の本山楽支配であった羽塚 堅子氏を名古屋から招き、数年に亘って直接に指導を受けました。 当時は大卒の初任給が9,000円に満たない時代、東京-札幌間の航空運賃は9,700円と高額で、名古屋から講師を招聘することは容易なことではありません。しかし、当時、堅子氏は帯広別院の春季彼岸会法要の法話講師として出講されていたことから、その時期に併せて指導を受けることができたのだといわれています。

根室別院の報恩講へ出仕された和暢会の皆さん。
根室別院の報恩講へ出仕された和暢会の皆さん。

その後、自主的に習礼(練習)を重ねて、帯広別院や会員の寺院の別院へ、定期的に出仕するようになり、これが現在まで続く活動の基盤になっています。やがて、和暢会のこういった取り組みが道内全域に知れ渡り、1961年の宗祖親鸞聖人七百回御遠忌、1969年の北海道開教百年を大きな契機として、道内各地の寺院からの要請を受けて大法要へ出仕するようになっていきました。

ただ、全てが順調だったわけではありません。1975年に堅子氏が逝去された後は、定期的に技術指導をいただける講師が近隣にはおられませんでした。指導者を失う中で、会員数は減少の一途を辿っていきました。まさに、和音階の「宮」と「商」のごとくにかみ合わない。雅楽の音色も、会の組織も歯車が狂い始めていました。

そのような厳しい状況の中で、1993年に帯広別院の開教百年を迎えるに際し、現在の会長は、「本山報恩講に堪え得る技量の習得」と「将来は舞楽を」という2つの目標を掲げて和暢会の再興を目指しました。その目標を実現するためには、的確な技術指導を定期的に担っていただく講師の存在が不可欠でした。その中で出会ったのが、現在の講師である羽塚 尚明氏だったのです。 尚明氏が指導をし始めた頃は、譜面を歌うことすらできない会員も少なくはなかったといいます。それでも、伝統を紡いでいこうという意欲がそこにありました。譜面を歌えるように、指導内容を理解できるようにと、意欲をもって各々が勉強を重ねてきました。

 

幼少期から雅楽に親しむ環境
一糸乱れぬ雅楽の音色が、報恩講の会座を厳かに荘ります。
一糸乱れぬ雅楽の音色が、報恩講の会座を厳かに荘ります。

和暢会には、20代から30代の若手寺族が大きな勢いをもたらしています。 彼らに入会の経緯を尋ねると、殆どの会員が「子どもの頃から馴染みがあったから、あまり意識もせずに入会した」といいます。なぜ、彼らは子どもの頃から雅楽に親しんでこられたのか、その背景には、会員の所属寺院の報恩講を互いに参りあう習慣があります。

和暢会の会員は、会員の所属寺院の報恩講に法中として参勤するだけに留まらず、楽僧として出仕しあってきた歴史があります。現在の会員である若手の方々は、子どもの頃から、自坊の報恩講が楽入りで勤められる光景を目の当たりにしてきました。そして、その参りあいの中で、組内の住職や若手僧侶との関係も結ばれ、大学や専修学院を卒業して地元に戻ってきた時分には、その知り合いの住職や若手寺族が和暢会への入会を勧めるという流れが自然に出来上がっているのだといいます。

もちろん、雅楽に対する興味関心は千差万別であるため、必ずしも全員が入会するという訳ではありません。しかし、「雅楽をやってみませんか?」と声を掛けると、多くの若手寺族は挙って入会を希望するそうです。報恩講の参り合いを通じて幼い頃から好意にしていただいてきた組の先輩方との人間関係が根付いていることや、若手の意欲や努力を汲み取って広く胸襟を開いて迎え入れようという会の雰囲気が、参画意識を高めることに寄与しているのかもしれません。

 

(きゅう)」・「(しょう)」和する人の交わり
「雅楽の夕べ」にて。会場に足を運ばれた方からは、大きな拍手と感嘆の声が聞こえてきました。
「雅楽の夕べ」にて。会場に足を運ばれた方からは、大きな拍手と感嘆の声が聞こえてきました。

会の中心を担う方々は、

「自分たちも、先輩方からそのようにしていただいてきました。とても先輩に恩返しをすることはできないけれども、せめて次の世代には、先輩にしていただいたことをお返ししたいと思っています」

といいます。

先輩が後輩を指導することは、どこにでもあることかもしれません。ただ、「和暢会」には、先輩方が後輩の問いに寄り添いながら丁寧に受けとめようとする雰囲気で満ちています。まさに「触光柔軟(そっこうにゅうなん)」と思わせるような、伝えなければならない核心は揺らがずに保たれながら、それを伝える表現や環境はどこまでも柔軟で、初めて身を置く人をも包み込むような「温かさ」があります。

稽古では、先輩方が率先して講師に問い訪ね教えて教えを乞います。その姿を見て、後輩たちも積極的に質問をします。そして、誰からの質問であったとしても、問いを皆で共有しながら、皆で考えることを忘れません。誰もが「師」になることなく、自ら学び続けていく「弟子」としての姿勢を崩さない、雅楽を通じて平等に繋がり合う人間関係が自然と形成されてました。

会員の1人は、

「北海道は開拓から150年ほどの歴史を重ねてきましたが、それでも本州で真宗の教えを大切にされてきた歴史に比べればまだ長くはありません。ただ、明治の「開教」以来、伝統的な儀式の在り方を継承していこうという意識は高いかもしれません。今でも、多くの方々が開拓と同時に進められてきた開教の歴史と伝統を、心から大事にしているのだと思います」

と述べられていました。

儀式という形をして表現されてきた伝統と、それを通じて「宮」と「商」とが見事に調和して伝統の素晴らしさを分かち合う人の繋がりが一体となって、今日まで伝承されてきた場所。それが帯広和暢会の本質なのかもしれません。