「彼岸」というのは、如来の眼で自分の人生を見直してみようという仏教行事
「彼岸」というのは、如来の眼で自分の人生を見直してみようという仏教行事

世間一般ではお彼岸(ひがん)であろうと、お盆であろうと、単なるお墓参りの意味でしか受け取られていません。「お彼岸」が意味するところを問わないと言いますか、お墓参りをすることと教えの問題がつながってこないのです。つまり、自らの救いの問題が見えなくなっています。

しかし本堂で彼岸会の法要に参列し、法話に耳を傾けたいと思う気持ちが起こるのはどうしてでしょうか。大切な方の死がそこに足を向けさせてくださったという方もいらっしゃるでしょう。そこに座るということはお一人お一人がどこかに救いを求めているからではないでしょうか。「彼岸」という言葉が私たちに何を投げかけているのか、いっしょに教えに聞いていきましょう。

「彼岸」というのは仏のさとりの世界をいいます。これに対して、私たちの世界を「此岸(しがん)」といいます。これはこれでまちがいないのですが、どうも実体的にとらえようとして、どこかに彼岸という世界が存在しているように感じてしまいます。もう少しくだいてみますと、「彼岸」とは、さとり・真実・浄土、いくらでも表現できますが、要するに如来(仏)の(まなこ)の世界です。「此岸」とは迷い・虚偽(きょぎ)穢土(えど)、つまり私たちの日頃の眼の世界です。

ですから「彼岸」というのは、如来の眼で自分の人生を見直してみようという仏教行事をいうのです。さらに、「此岸」の眼では本当に生きたことにはならない、けっして救われないということに気づかせていただく行事といっていいでしょう。仏教というと堅苦しいですが、一度かぎりの有限ないのちをどう生きることが、本当に生きたことになるのかを明らかにしているのです。

仏とは真実に立って生きる人ですから、その教えが仏教に他なりません。仏になる方向性をいただくのが彼岸ということでしょう。

本多雅人(東京教区蓮光寺)
蓮光寺情報紙『ふれあい』から
『真宗の生活 2006年(3月)』「彼岸」
※『真宗の生活2006年版』掲載時のまま記載しています。