「偲ぶ」ということが良い悪いではありません。それが仏法を聞くことの代わりになっている現実が、今日いかに深く「いのち」を見失っているかということであります。
「偲ぶ」ということが良い悪いではありません。それが仏法を聞くことの代わりになっている現実が、今日いかに深く「いのち」を見失っているかということであります。

「死んだら、ゴミになるだけだ」という考え方が、その意識もなく広まっている。あるいはなぜ高いお金をかけて葬式をしなくてはならないのかというものの考え方も、世の中に広まっています。そうするとどういう現象が起きるか。東京などではお葬式や法要が少なくなっていると聞きました。お葬式は密葬(みっそう)で済ませ、あとは「(しの)ぶ会」になる。「偲ぶ」というと、いかにも仏さまを思ってのことのように聞こえます。

しかし、「偲ぶ」というのは、生きている人間中心であります。「にんべん」に「思う」と書くと、「偲ぶ」になる。生きた人間が、仏さまのことを「ああでもない、こうでもない」と言い合って、そして酒でも飲んでお別れをするわけでありましょう。「偲ぶ」ということが良い悪いではありません。それが仏法を聞くことの代わりになっている現実が、今日いかに深く「いのち」を見失っているかということであります。

仏法を聞くとは、仏さまに私たちの方が見つめられていくことでありましよう。人間の知恵は、真実の「いのち」の上にかけられた厚い暗い(おお)いであります。その知恵が中心になる時、「いのち」への感性が薄れ、人間、死んだらゴミになるという思いも生まれるのであります。しかし、それで果たして本当に幸せでありましょうか。人間中心の思想は、現代に至っていよいよ根本的(むな)しさを(あら)わにしていると思われます。今日の虚栄(きょえい)が豊かさでありましょうか。子殺しが続いています。

念仏往生の大地に生きる」(東本願寺出版部)から・高史明(作家)
『真宗の生活 2007年(3月)』

※『真宗の生活2007年版』掲載時のまま記載しています。