どれほど堕落しても、私たちが真実に生きたいと願っていることを信じて、その願いに目覚めて生きるものになれと、呼びかけてくださっているのが親鸞聖人なのです
どれほど堕落しても、私たちが真実に生きたいと願っていることを信じて、その願いに目覚めて生きるものになれと、呼びかけてくださっているのが親鸞聖人なのです

私は、よく学生さんにミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波少年文庫)という童話を読むことをすすめます。読まれた方もあるかと思いますが、この童話のテーマは、「(なんじ)の欲することをなせ」ということです。つまり、生きるということは、したいことをすることだというのです。確かにそうですね。したいことをしているときは、生き生きとして、生きていることを実感もできます。反対に、したくないことをさせられると身体そのものが硬直してしまいますね。だから、したいことをしなさいと言うのです。主人公はバスチアンという少年で、成績もあまりよくなくて、スタイルも少し太っちょで、いじめられっ子でもあるんです。人間的にはマイナスの価値ばかりを持った少年ですが、ファンタージエンというおとぎの国に入り込んで、いろいろな冒険をとおして、自分が本当に何がしたいかに気づいていく物語なのです。その冒険の中で、「汝の欲することをなせ」という言葉をめぐって、ライオンのグラオーグラマーンと対話するところがあります。それは次のようなものです。

 バスチアンはライオンに宝のメダルの裏に記された文字を見せてたずねた。「これは、どういう意味だろう?『汝の 欲する ことを なせ』というのは、ぼくがしたいことはなんでもしていいっていうことなんだろう、ね?」
グラオーグラマーンの顔が急に、はっとするほど真剣になり、目がらんらんと燃えはじめた。
「ちがいます。」あの、深い、遠雷(えんらい)のような声がいった。「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの(まこと)の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」

 単に自分のしたいことをしたらよいというのではなく、本当にしたいことをしなさいということなんだと。しかし、本当にしたいことを見つけることが容易ではないということですね。こういう対話が、『はてしない物語』に出てきます。
これは、インドの龍樹(りゅうじゅ)菩薩(ぼさつ)の言葉ですが、「もし足ることを知らざる者は、たとい世間に満つる財物を得るとも意なお足らず」という言葉があります。人間には、全世界のものが、自分のものになってもなお満たされない欲求があるということです。欲望が満たされれば、幸せになるということではないんですね。私たちは、自分の思いどおりにならないから、生きることが(むな)しいんだと考えています。そんな単純なものではないんです。空しいのは、本当にしたいことをしていないからだというのです。そして、バスチアンは、いろいろな冒険をとおして、本当にしたいことに目覚めていくのですが、それは、

 バスチアンの心には、まったく別の形の(あこが)れが目覚め、大きくなっていった。それは、これまで一度も感じたことがなく、あらゆる点でこれまでの望みとはぜんぜんちがう欲求だった。自分も愛することができるようになりたい、という憧れだった。

という言葉で語られています。そのバスチアンの言葉を受けて、アイゥオーラおばさまが、

 とうとう最後の望みを見つけたのね。愛すること、それがあなたの真の意志なのよ。

と語るのです。愛することというのは、無条件に受け入れるということであって、助け合って、共に生きることを実現することです。そのことをどんな人も求めているということです。それが、本当にしたいことだというのです。そのことが、真実に生きるということです。
(じょう)不軽(ふきょう)菩薩(ぼさつ)」と呼ばれる菩薩がいます。『法華(ほけ)(きょう)』に出てくる菩薩ですが、常に人を軽蔑(けいべつ)しない菩薩という意味です。この菩薩は()う人遇う人に、いつも合掌(がっしょう)礼拝(らいはい)して「あなたは必ず仏になられる方だ。だから自分自身を大切にしてほしい」と言い続けた菩薩です。このことは、私たちが、常不軽菩薩のようになりなさいということではなく、どれほど堕落(だらく)しても、私たちが真実に生きたいと願っていることを信じて、その願いに目覚めて生きるものになれと、呼びかけてくださっているのが親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)なのです。

『真宗の生活 2006年(5月)』「本当にしたいこと」
いのちみな生きらるべし』(東本願寺出版部)から・中川皓三郎(大谷大学短期大学部教授)
※役職等は『真宗の生活』掲載時のまま記載しています。

shupan東本願寺出版の書籍はこちらから