浄土にて  かならずかならず   まちまいらせそうろうべし (末燈抄)
出典 浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし
『真宗聖典』607頁
今日のことば2008.12
まことの「くに」に生まれるには、入国審査も必要です。

「この身は、いまは、としきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまりまいらせそうろうべし」。

宗祖(しゅうそ)が最晩年に、一人の門弟に書かれたご消息(しょうそく)の末文です。共に如来の御同朋(おんどうぼう)として、まことのくにを知らされた人ならではの、あたたかさを感じさせれる言葉です。

「私がなぜ浄土を願えと説くのかといえば、アミダの浄土という場で初めて倶会一処(くえいっしょ)できるからだ」と、『阿弥陀経(あみだきょう)』の会座(えざ)で語られたのは、仏陀(ぶっだ)・釈尊(しゃくそん)であります。

「倶会一処 〈俱(とも)に 一処(いっしょ)に 会(え)す〉」。絶対平等の出会いの瑞々(みずみず)しさを意味する「一処」とは、どこなのでしょう。

墓碑銘(ぼひめい)に「倶会一処」とあるのも、愛する人との別離の悲しみから、再開を求めずにいられない思いが、倶会一処の「くに」を願っているのです。

ただ、仏が説かれるところには「諸上善人(しょぜんぜんにん)倶会一処」とあります。縁ある人はすべて、私にとってよきひとでありましたと、出会い直せる場が、ほとけのくに・アミダの浄土だとおっしゃっているのです。

愛する人となつかしく再開できることを期す思いには、人情としてとても大切な深みがあると思います。とはいうものの、その感情には、嫌な人とは会いたくないという思いも含まれているのではないでしょうか。

浄土に生まれんと願う心も、悲しいかな「雑毒(ぞうどく)の善」といわざるを得ないとなったら、私たちには手も足も出ないと歎息するほかありません。

「念仏往生と深く信じて」と教えられて来たのが、浄土真宗の習いでありました。

浄土に生まれるのに何か条件があるのかといえば、全く無条件で誰も資格を問われたりはしません。それなのに、フリーパスとはいかないのです。まことの「くに」に生まれるには、入国審査も必要です。なぜならば、不純なものが入ったら、浄土は浄土でなくなってしまうからです。

だから、この関門(かんもん)では、私の持ち物はすべて手放せなければなりません。それでこそ一味平等の「くに」での出会いが果たせるのですから。

「念仏往生」と語り継がれてきたのは、ここの問題だったのではないかと思います。「往生」という言葉も、このままでは一歩も進めないという限界で、「往生した」とも「立ち往生」とも言われることがあります。「往(ゆ)き生まれる」という前向きな言葉のはずなのに、なぜか困り果てたところに出てきます。本来と違った使われ方ですが、実はここに念仏往生するキーポイントがあると思われます。
今までの自分が死すところだからです。初めて、自分のあいようが根こそぎゆさぶられるのです。そして、まさにその時、倶会一処する「くに」に迎え入れられるのです。無条件救済・弥陀の本願は念仏に往生する無条件降状の一点で、この身に成就(じょうじゅ)されてきます。

近田 昭夫 (ちかだ・あきお 1931年生まれ。東京都在住。東京教区顕真寺住職。)
(今日のことば2008年12月)
※『今日のことば2008年度版』のまま掲載しています。

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