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刻々と変化する社会において、その社会を生きる一人ひとりの「人」に向き合うことになる僧侶。いま、「グリーフケア」の視点から「人」そして「悲嘆」への向き合い方について、大谷派教師養成の現場があらためて検討されています。『真宗』2018年9月(26-42頁)では、大谷派教師養成に関わる九州大谷短期大学教授、修練道場長、そしてグリーフケアに取り組む3名の方による対談が企画されました。真宗大谷派の僧侶として、「人」にどのように向き合うか。その問いをたずねる参考として転載いたします。

立教開宗八百年慶讃法要お待ち受け『真宗』誌企画
語る つなぐ あゆむ
第5回 「教師養成の今、そして未来」
尾角光美(一般社団法人リヴオン代表理事)
吉元信暁(九州大谷短期大学教授)
相馬豊(修練道場長)
尾角光美(おかくてるみ)(一般社団法人リヴオン代表理事)
吉元信暁(よしもとのぶあき)(九州大谷短期大学教授)
相馬 豊(そうまゆたか)(修練道場長)

2018年5月18日(金) 座×談 会場/しんらん交流館  司会/速水 馨(はやみかおる)(真宗大谷派宗務所教育部長)

2023年に宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要をお迎えするにあたり、宗門は今どのような課題に直面しているのか。“私たちは慶讃法要をどのようにお迎えするべきか”をキーワードとして、教化の現場である寺院の方々や、宗門に関心を寄せていただいている有識者の声を紹介し、宗門全体で共有したいと考えています。
* 不定期の掲載となりますが、各回ごとにテーマを設定し、宗務所各部門と共同して誌面化しています。〔慶讃法要準備本部事務室〕

第5回目の今回は…
今、僧侶の在り方が厳しく問われています。「きちんとした法話が聞きたい」、葬儀の現場で「遺族にきちんと向き合ってほしい」という声もあります。
その一方で、これから真宗大谷派の教師になろうとする若い世代には、家庭や社会の激変の中で、確かな未来を描けず、対人関係を恐れてしまうということがあるのではないでしょうか。
今回は、教師養成の現場から見える今、そして、そこから展望される未来について、教師修練の道場長である相馬豊さん、学生に寄り添いながら法話の実践的な学びを実施されている九州大谷短期大学の吉元信暁さん、グリーフケアの視点から、僧侶と共に学びの場を開かれている尾角光美さんに語り合っていただきました。【企画担当】教育部


 

■孤独な学生たち

●司会 まず、自己紹介を兼ねて、今感じておられることをお願いします。

●相馬豊 修練道場長という大変重い役を引き受けているわけですが、普段は金沢教区第4上組の道因寺の住職として生活しています。
これはつい先日のことですが、ご門徒さんで、若いお母さんが突然亡くなられました。枕経に呼ばれ、仮通夜をして、翌日はお通夜、そして葬儀を行いました。 そのお通夜の席で、あとに遺った小学生の2人の姉妹が一緒に「正信偈」のお勤めをしてくれたんです。たどたどしく詰まったり飛ばしたりしながら。でも、それがものすごく新鮮だったのです。
そのお勤めは、おばあちゃんが渡してくれた赤本を受け取った長女の方が「これ、お母さんの前で読むんやね」と。それで半徹夜して、2人で「正信偈」のひと文ひと文字を読む
ように練習して、そしてお通夜の時に声を出してくれ、また葬儀の時も声を出してくれていました。こういうことを通して、お母さんに自分たちの声を聞かせてあげているのだと
思いました。
何かそこに、亡き方に言葉を伝えていく。そういうことが響くお通夜、葬儀がありました。
悲しいけれども、そうやって精一杯自分のできることをやっていこうという姿に、逆にこちら側の平生の在りようが教えられるということがありました。

●吉元信暁 私は、九州大谷短期大学に勤めています。
今相馬さんが話された、「声に出す」ということ、これが入学してくる学生に一番欠けていることだと思います。
声に出すとか、あるいは声が出される中で育ってきて、その声にふれて、そういう安心の中で仏教にふれてきたということが感じられない。
ちょっと抽象的になりますが、入学してきた学生から、その学生を送り出してきたものが見えないのです。それこそ僕が学生の時は、授業料を門徒さんが出してくださっているのだと自分から言っている人もいました。
ところが今、仏教を学んで卒業していくところにも、迎え入れてくださるような感じがないのですね。学生に孤独を感じるのです。
もうひとつ、確かに大学で教師養成を行っているのですが、学生が2年間勉強して教師資格を取得して現場に出ていく。しかし、現場に出て行ってどういうことに悩み、どういう課題を持っているのかということについては、あまり把握できていないと感じています。もちろん卒業生と話をすることはありますが、そこに私自身が責任を持てていない。
ただ、責任を持てていない中でも、いろんな場面で卒業生に出会うわけです。私が問題だなと思ったのは、卒業生が通夜でご法話をせずに下がってしまうという場面に出くわしたことです。お通夜のご法話はとても大事だと感じているのですが、やっぱりできないと言う方もおられるのではないでしょうか。そこは大きな問題だと思います。

●司会 九州大谷短期大学では、法話実習の取り組みをされていますね。

●吉元 卒業生だけでなく、教師資格を取得した人が法話に自信を持てなくなっている。それに対して大学として何かできないだろうかということで、2010年に九州大谷真宗研究所を立ち上げて、本山、それから九州各教区のご協力をいただいて「教化講習会」を始めました。2年1サイクルで、法話のできる人を育てようという講習会です。
九州大谷短期大学は、仏教学科以外に、幼児教育学科と福祉学科、表現学科があります。その先生方にも協力してもらい、大学の総体として、法話ができないで困っている教師に何かできないだろうかという取り組みです。
表現学科は演劇と図書館司書の勉強をしています。その演劇の先生に出てきていただいて、「皆さん、人前に立って話すって緊張するでしょう。何で緊張するか分かりますか。見られていると思うから緊張するんですよ。そうじゃなくて自分が相手を見れば緊張しない」とか、あとは声、「相手に本当に声が届いていますか。ここら辺に落ちているんじゃないですか」、あるいは「大きい声を出したら相手に届くかというと、そうじゃないんですよ。大きい声を出したら、その伝えようと思う相手を突き抜けて向こうのほうに行っちゃっているかもしれないですよ」と。
そういう講座を受けながら、実際にご門徒さんの前で法話を行います。大学の近隣のお寺さんをはじめ九州内の寺院にお願いして、教化講習会の法話実習ということで、ご門徒さんに集まっていただいて聞いていただく。それでひとついいなと思ったのは、法話実習ですと言うと、ニコニコして集まってきてくださるご門徒さんがおられるんです。そういう中で話をして、その後、お茶を飲みながらいろいろ言ってもらうんです。
学生が孤独な中で入学して、孤独の中に帰って行くと、やっぱり最初にぶつかるのが通夜説教ですよね。ニコニコしたご門徒さんじゃないんですよね。だから、教化講習会のよ
うに最初にそういう温かい場の中で、少しでも自信をつけるというか、失敗も含めて話したということが大事だと思いますね。
そういう取り組みを2010年から2年1サイクルで始めて、ちょうど四期が終わって五期目に入ります。その「教化講習会」の取り組みを、現役の学生の教師養成に活かそうということで、今年度から「法話基礎実習」という科目を設けました。まだ試行の段階ですけれどもそういったことに取り組み始めています。
吉元信暁プロフィール

■「喪の旅の伴走者」―聴く力と伝える力

●尾角光美 私がグリーフケア(※)に関わる原点は、19歳の時に母を自殺で亡くしたことでした。私が同志社大学に入学する2週間前のことでした。その半年前に父が失踪していたので、両親がいない状態で大学に入って、その時はグリーフのグの字も知らない、母も火葬だけでいい、散骨してくれという遺書を残したので、全く弔いという弔いができないままに母を失いました。
ご縁があって翌年から、あしなが育英会で奨学金を借りて、親を病気や震災や自殺で亡くした遺児の仲間たちと出会いました。まさにグリーフケアの現場、同じ経験をした人が集い語り合うという、「分かち合い」ということを経験したんです。そこで初めて、悲しみを分かち合うところから力や希望が生まれてくるという現場に立ち会いました。

悲しいことを分かち合うことは後ろ向きに見られがちですが、例えば自殺で親を亡くした子ども同士が分かち合うと、この社会から自殺をなくしたいとみんな願うんですよね。震災遺児であれば、減災とか防災をしたいという子たちがいたり。失うという経験の中には希望の種があるということを実感し、それが私にとっての死別や喪失から生まれるグリーフへのまなざしや姿勢、価値観になっています。

2006年、母を亡くした3年後に「自殺対策基本法」という法律を国が制定しました。滋賀県主催の講演会で登壇したところ、そこに参加されていた本願寺派の総合研究所の方から依頼され、翌年自死・自殺問題を扱うシンポジウムに呼ばれました。そこで初めて宗教者の前で自分の体験やグリーフについてお伝えしました。

そこから12年、全国の自治体や学校、宗教教団などでお話をする機会をいただき、大谷派とのご縁は、2010年に開かれた自殺についてみんなで考える北陸連区の差別問題研修でした。
そこに小松教区勝光寺の能邨勇樹さんというお坊さんがいらしていて、グリーフケアを自坊でやりたかった、みんな勉強したいと思っているということで、全5回の連続講座を小松(石川県)で開講させていただきました。

そうしたご縁から、お寺の中で育まれていく支えの大きさを知りました。別に「グリーフケア」は新しいものではなく、日本にはお寺で死者を共有してきた文化があると思うんですね。亡き人を想う時間を、おのずと持ってきた。
今は地域の関わりが薄くなったり、家族の単位が小さくなったり、社会が変容する中で、遺族の支えになっていたお寺との関係性も変わってきたのだろうなと。

けれども、お寺を再びそういう場にしたいというお坊さんが全国にいるということが、この12年の歩みの中で分かってきました。いろんな宗派に呼んでいただくのですが、この数年、大谷派からの要請が劇的に増えています。最近では、組の教化事業として、愛知県の知多で5回連続講座を行わせていただいたり、静岡や横浜別院での連続研修会だったりと。私たちにとっては本当にありがたいご縁をいただいています。
よく「喪の旅の伴走者」という表現でお伝えするのですが、遺族にとって僧侶やお寺という存在が遺族の歩みに伴走していければ本当に心強いだろうなと思います。そういう願いを持ちながら、僧侶の方と共に歩んできました。

死者を大切にする。お寺がそれをしなければ、なかなか他ではできないと思うんです。葬儀屋さんがグリーフケアと言っても葬儀の前後のみの関係ですよね。四十九日までずっと七日参りがあって、一周忌、三回忌、七回忌と、私たちは死を起点として死者とつながり、仏さまともつながり生きていくことができます。そこを失わず、より豊かにしていくことが願いです。
特に驚いたのは、最近、10年前に研修を受講してくださったお坊さんから、「身近な方がご家族を自殺で亡くされたので、自死遺族の会の情報がほしい」というご連絡をもらいました。
そのお坊さんは「(亡くなった人は)どこにいったのですか」と問われて、電話で「必ず浄土に生まれる」とお答えされたのですが、もう少し何かできることがないかと思って問い合わせをしてくださいました。
もちろん浄土のことを聞いて安心してくださればいいのですが、それまで信仰が特になければ、大きな喪失体験をしている人にとっては、1回聞いただけで本当にそう思えるかというと、難しいと思うんです。
それまで信仰を生きてきた人であれば、ああ、そうかと思うけれども、そこまでご縁がなかった方は「浄土に還られましたから安心してください」と言われたとしても、やっぱり安心できない。
遺族を支えるグリーフケアにおいて、「傾聴」「共感」が大事と言われますが、お坊さんの視点で考えるとやっぱりギアが2つ必要で。「大事に聴いて相手をじっくり見ていく力」と、「ちゃんと仏法を伝える力」。両方のギアが大切です。
仏法を伝えるだけではダメだし、じゃあケアだけでいいのかといったら、それはお坊さんでなくてもできる。だから、この2つを大事にしていくということを伝えています。

●吉元 仏法を伝える力ということですが、法話実習という取り組みを始めて、法話って何だろうということについて考えさせられています。
法話といったら話すことでしょうと思っていたのですが、演劇の先生の表現することについてのお話を聞いて、こちらが何かを与えるのではなくて、向こうの様子をよくよく観察している時に自分から何か引き出されてくるものがあると。そういうことに気づかされました。
本当の表現、相手に伝えるということの原型は、お母さんが子どもにご飯を食べさせている「あ~ん」という姿、あれが、こちらから本当に何かが伝わっていく、表現しているというかたちですよと教えられました。
お母さんは、子どもに「あ~ん」としている時、今自分がどんな顔をしているのかということは気にしないでしょう。それが本当の表現なんですね。そういうことをものすごく考えさせられています。これは、やっぱり学生とも共有したいなと。
だから法話というのはこうすることだよとか、そういう技術的な実習ではない実習、「法話基礎実習」もそういう科目にしたいと思っているんです。
※ グリーフケア 「グリーフ」とは、大切な人、ものなどを失うことによって生じる、その人なりの反応、状態、プロセス(一般社団法人リヴオンホームページより)。リヴオンでは、グリーフを乗り越えて立ち直るのではなく、グリーフを大切に抱えながら歩んでいくためのサポートを「グリーフケア」としている。

■大切なのは「在り方」

●吉元 尾角さんの言葉で、ああ、そうだなと思わされたのは、「グリーフはプロセス」という言葉です。

●尾角 例えばお医者さんが「何時何分に亡くなられました」という死の瞬間は点ですよね。でも、グリーフの反応というのは亡くなる前からも時に表れます。余命を告知されていれば、家族にとっては失うことの恐れや不安がすでに始まるかもしれない。亡くなった後も、私は今年で母を亡くして15年になりますが、15年経っても泣く時はあります。揺れるものでもあり、何度でも悲しみは立ち現れてきます。
でも、人は「乗り越えるもの」とか、「四十九日経ったから落ち着いた」とか、みんな落ち着いていくことや終わっていくこと、乗り越えていくことを期待、想定してしまいがちです。

●吉元 そうですね。

尾角光美プロフィール●尾角 でも、それは一人ひとり違うんですよね。なので、グリーフはプロセス、歩みなんです。先ほどグリーフを「喪の旅」と言いましたが、点ではなく、抱きながら歩んでいく、その過程、プロセスの波というものを、私たちはどう支えていくのか。
グリーフの理論からすれば、記念日反応といって、記念日は身体や心の状態が落ちやすいので、まさに命日に法事があったり、月参りがあったりするというのは、実は遺族を支える優れた仕組みなんです。
なので、グリーフは点ではない。死という事象は点かもしれないけど、その死によって生まれてくる影響というのは、本当に前後してずっと連綿と続くものです。もちろん終わりを感じるものもあります。でも、終わらないグリーフもあるということを、私はとても大事に伝えてきました。
ご遺族から、「乗り越えなきゃいけないと思っていたから苦しかったけれど、そのことを抱えながら生きていっていいと知れて楽になりました」という声を多く聞いてきました。

●吉元 そうですよね。そもそも仏教では死は点であるなんて考えませんから。

●尾角 終わりではないですし。

●相馬 祖父が亡くなっていった時のことなんですが、亡くなる3日前から、自分のおじ、おばたちが祖父の枕元に集まって看護にあたっていました。その1人のおばが、祖父に寄り添って、膝から足首にかけてなでていました。
そのころは、自宅の看取りだったので、お医者さんが1日に何度も往診に来られて、最後、「臨終です」ということを言ったら、みんな一斉に号泣しました。そのおばだけが、泣きながら「戻ってこい、戻ってこい」と言い続けていたことを鮮明に覚えています。
いのちを終えていく人の前に立った時、自分の経験で積み上げてきたものとか体験、あるいは社会的地位とか、そういうものは一切役に立たない。自分の身の無力を教えられる。
だから、何気ない言葉かもしれないけれど、おばの「戻ってこい、戻ってこい」というひと言が今でも記憶の中に残っているんです。失うということの喪失感と、失っていくいのちを見ながら言い続けるということが。

●尾角 亡くなった時というのは、確かに「終わり」感がすごくあるんです。もうここには居ないというか、もう会えないんだと。でも本当に信仰がある方というのは、やっぱり亡き人とのつながりを感じていく力がある気がしていて。

私は母を亡くした10年後に兄を突然亡くしました。発見は死後しばらく経っていて、原因も分かりませんでした。私の中には兄が苦しんで亡くなったのではというイメージが渦巻いていました。でも、その時に傍にいてくれた僧侶の友人は、「お兄さんは苦しんでいない。浄土から光美さんの幸せを願っている」ということを、諦めずに伝え続け、寄り添ってくれました。
それを本当に信じられれば、穏やかな兄のイメージを持ち続けられるんです。だから、本当にお坊さんには語る力も伝える力も必要なんだろうなと思っていて。

グリーフケアを勉強したいお坊さんは最初、聴くことのノウハウとかハウツー、遺族に言ってはいけない言葉のリスト等を求めるのですが、聴くのも本当に大切だけれど、本当に大切なのは、その根っこにある「在り方」なんです。話す時も聴く時も、「どのように在るか」だと思うんですよね。
その在り方次第では、「ああ大事にされているな」と受け手に届くのです。見てくれている、こっちを意識してくれている、と。
この人はどこを見ているんだろうと思わせるお坊さんから「お兄さんは浄土から見護っていますよ」と言われても、届かないと思うんです。誰が、どういう在り方で、どんな想いで、その人に対して言葉にするのか。

●吉元 在り方は、なかなか自分では見えないですよね。

●尾角 見えないですね。だから、私たちはロールプレイ(※)を演習に取り入れています。聴くことの練習として、遺族役と僧侶役と観察者の役をそれぞれ3回、シナリオをもとに、役になりきって対話します。遺族役をやると、お坊さんにどうしてほしいのかという遺族の気持ちが分かるし、観察者役をやると、お坊さんって、ああこんなふうに見えるんだなと気づく。

●吉元 なるほど。

●尾角 だから、自分の在り方は見えないけれども、観察者の人に観察してもらって、「遺族が話しかけていた時に話をかぶせましたよね」とか、「あの時目を見ていませんでしたよね、遺族は見てほしそうでしたよ」とか、そういうことを観察者がロールプレイを通じてフィードバックしてもらうんです。
在り方は見えないけれども、ロールプレイという練習ができる場があると、自分の在り方を見つめ直したり、整え直すことができます。こういうことを学びの場として行ってきました。
※ ロールプレイ 役割演技。実際の場面を想定して、複数の人がそれぞれの役割を演じ、疑似体験することで、実際にそのことが起こった時に適切に対応できるようにする学習方法。

 

■法話の学び―自分が変わるということ

●尾角 先ほどの演劇の先生の言葉は、本当に素晴らしいですね。

●吉元 九州大谷の持つさまざまな分野の力を生かして「教化講習会」に取り組んだことで、九州大谷の各学科の学びが全部つながっているんだと思いました。新しい発見でした。

●相馬 法話ということについて、修練の中で感じていることですが、修練生もまさに教師資格を取ってやがて現場へ行く。そ相馬豊(修練道場長)プロフィールうすると、立派な僧侶にならなければならないという思いを持っています。
この「立派な僧侶」というのは、きちんと読経ができる、そしてお話ができると。そういうプレッシャーを、もろに感じているのです。
確かに立派な僧侶も大事だけれども、私が言うのは本物の僧侶になってほしいということです。本物というのは、現実の中で苦しんだり悩んだり、悲しみを持っている、それぞれが関わるいろんな人とのつながりの中で、何かを感じ取って、感じ取ったものを自分の言葉として語りかけていける、そういう僧侶。そこに目を向けられるまなざしを持った人になってほしいと願っているのです。

●尾角 私たちのところに学びに来ているお坊さんたちは、みんな「何かいいことを言わなきゃというプレッシャーの中にずっといました」と口をそろえて言うんですよ。そんなにプレッシャーがあるんだなと。
でも、学んでいくうちに、いいことを言おうとする前に「聴きます」、「そこから出てくるものを大事にします」というふうに変わっていくんですよね。

●相馬 ある意味、お寺に生まれたことが一番のプレッシャーかもしれません。周りの環境と違う中で、もうすでに、そこに組み込まれている。そこに一番つらさを感じているのかもしれないです。

●尾角 吉元先生にお聞きしたいのですが、学生が抱える課題というのは変わってきているのですか。いわゆるお寺に生まれたことがプレッシャーだったのは、昔からたぶんそうだったはずですよね。でも実際今、何がそういうプレッシャーを生み出しているのでしょうか。

●吉元 お寺に生まれたことがプレッシャーになるというのは、おっしゃるように変わらないと思うんです。でも、20年前は本当にお寺に生まれたことが嫌で嫌で仕方がないという人が、2年勉強して修練に行って、バッと変わるということがあったと思うんですけれど、今は「嫌だ」が、「徹底的に嫌だ」じゃない。だから、その「嫌だ」ということが縁になって自分というものが根本から翻るということも起こりにくくなっているのではないでしょうか。

●相馬 みんな自分のカラーを持っていますから、そこで自分というものを壊されたくないんです。だから、人と話すことが嫌なんです。雑談はできるのですが、自分のことをさらけ出して話すということが一番怖い。だから、常に他者から自分がどういうふうに見られているんだろうかということばかりに気を取られてしまう。
例えば、質問された時には、こう答えたら質問者は満足するだろうと予定を立ててしまうんです。間違いを恐れるというか。何かそういう雰囲気で、自分というものを語れない、語ろうとしない。
もうひとつ言うならば、隣にいる人を信頼できない。自分だけが大事で、隣の人とはなかなか信頼関係がつくれない。

●吉元 結局、自分が変わるということが恐いんだと思うんですね。それこそ先ほどの教化講習会ですけれど、英語の先生に来ていただいたことがあるんです。その先生はコミュニケーションをテーマに、面白いことをおっしゃいました。
日本の英語教育は間違っていますと。だいたい読み書きから始まるでしょう。でも言葉を覚えるというのは読み書きじゃない。最初に言葉を覚える時に何をしましたか。お母さんの言葉を聞いたでしょうと言うんです。始まりは聞くということです。
それを私たちはリーダーとグラマーで文法を覚えて、読む、書くというところから始める。だから10年経っても英語ができないでしょう。自分と違う言葉を習得するということは、実は違う文化を受け入れるということだから、自分が変わるということなんだと。
自分はアメリカにいた時に留学生を受け入れて英語の教育をやっていたけど、一番ダメなのが日本人。わざわざ留学してきて日本人同士つるんでいる。1人で外に出て行かない。それは何かというと、やっぱり変わることを恐れているんだということをおっしゃっていて、ああそうだなと。
現場に出て法話をするということは、やっぱり自分が教化されるということだから、自分が変わる。自分が変わることを人前で見せることだと思うんですね。それを恐れているんじゃないかなということを、相馬さんのお話をお聞きしていて思いました。

■自身を知る学び

●司会 グリーフケアの学びで欠くことができないのは、相手に寄り添う、聴くということの前に「自分自身を知る」ということがあるとお聞きしました。その学びはどうされているのでしょうか。

●尾角 はい。全5回の講座であれば、第1講はグリーフの基礎知識を学びます。第3講がロールプレイ、聴くこと、対話の力を学ぶのですが、その前の第2講は、「自分自身を知ることと、セルフケアの学び」を行っています。自分がどういう喪失体験をしてきて、その時、どう感じてきたのか振り返り書き出してみる。「ロスライン」という手法を用いています。

たとえば、大失恋をして、自分にとっては誰かを亡くすよりも、その体験が本当にきつかったという話をしてくれたり。師と仰いでいた人が自殺して、あらためて教えを問い直したということを語ってくれたり。
この学びを経てみんなが言うのは、「自分の喪失にも向き合っていなかったのに、人の喪失に向き合うなんてできないよね」と。ついつい「いいことを言わなきゃ」とか「聴いてあげなきゃ」とか、人に対して何かしてあげようと思っていたけれども、自分を知るということが実は今までなかった、振り返る機会が普段なかったということを言うんですね。
それをするには、それこそ信頼関係がないところでは、自分を見つめることなんて怖くてできないんですよ。なので、やっぱり共に学び合う仲間同士で、信頼関係をつくってから自分を見つめるということをしていく必要があります。その後に、他者の痛みや苦しみを聴いていく。
結局、他者の痛みを聴く時や、遺族の苦しみを前にした時に、自分の苦しみを粗末に扱う人は、目の前の人の苦しみを大事にできるのか。なかなか難しいんです。
日本の教育で残念なのは、自分を大事にするセルフケアなんて学んだことがないし、まずは他者に思いやりを持ってとか、周りに迷惑をかけないようにと言われることはあっても、自分を見つめる機会は持てていないということです。自分を大事にすることも分からないし、他人の話を聴いてつらくなったら、どうしたらいいのかということも知らない。

傾聴は大事だ、寄り添うことが必要だと、震災以降、殊更に強調されるようになって、お坊さんたちの意識はすごく高くなっています。でも、ただ単に、人に寄り添おう、寄り添おうでは、やっぱり足元がすくわれていくと思うんですね。なので、私たちは自分を知ること、セルフケアを土台として大事にしています。

●吉元 自分自身と向き合うというのは、まさに真宗大谷学園の教育理念なんですね。その教育理念をどのようなかたちで実践していくのかという時に、九州大谷短期大学で大切にしているのが「感話」です。
感話というのは、自分自身が感じたことをみんなの前で語ることです。どういう場面でやっているかというと、月に1回、全学生で「正信偈」をお勤めして、仏教讃歌を歌い、学生が感話をして、教員が講話をする御命日勤行という行事の中でやっています。

九州大谷短期大学の感話

(写真)  九州大谷短期大学の感話

感話は、聞いている側もものすごく印象に残りますね。「自分の体験を通して感じたことを語ってください。テーマは出遇い」というふうにして、自分の出遇いを話すのですが、だいたい出てくることは、なぜか、つらかったこととか苦しかったことなんですよ。
「私は、この前、こんないいことがありました」ではなくて、そういうつらかった体験を話すんですね。それは話す側もそうだし聞く側も、そのことを聞きながら自分と向き合う時間になっています。
九州大谷短期大学では、この感話を「自分の体験を通して自分自身が感じたことを、できるだけ素直な言葉で語ること」と文章化しています。そして、この感話の精神に依りながら「自己との出会い」「社会との出会い」という座談の時間を持っています。座談は、仏教学科だけではなく、全学で少人数のクラスをつくって座談をしています。
九州大谷では、もちろん仏教学科の学生に対して教師養成をしていますが、仏教学科の学生は定員10人なんですね。全体の定員は、195人です。全学生に対して仏教学科の学生は5%です。その5%の学生が、他学科の学生たちと一緒に育っていく。もちろん他学科の学生も仏教学科の学生と共に育っていく。そのために学科をまたぐクラスでの座談の時間を設けているんです。
だから九州大谷は結局、何をやっているかというと、門信徒の養成をしていると思うんです。つまり法話を聞く側の養成も一緒にしているということだと思います。
そういうことがないと、やっぱり最初に言ったように、孤独なところから出て、孤独なところに帰っていくということになってしまう。そういう教師というのは本当にかわいそうだと思いますね。これは切に感じていることですが、実は若い学生たちは仏教というものにとても関心を持っています。だから毎年、200名の学生が「正信偈」をお勤めできるようになって卒業していくというのは、本当に大切なことだと思います。そういうことをやっていかなければいけないと思っています。

●相馬 修練でやっぱり大事なのは、奉仕団の方との合同夕事なんです。ここで修練生がびっくりします。ご門徒さんのお勤めの在りようと、自分たちのやっていることの違いが出てきたり、ご門徒さんの感話を聞いて、そして、その感話のひと言で驚いています。
そして、感話された方も、最後に修練生に向かって、やっぱり勇気づける言葉を言ってくれます。その言葉を聞いた修練生がそこで驚くのです。自分の今まで知らなかった、直接現場で関わらなきゃならない人だけれども、いざ目の前で、その姿を見ると、自分の在りようが、いったい何だったんだろうかと感じているようです。
声明についても、まさに門徒さんが、その姿を通して教えてくれて、それが本当に大事なこと「聞くということ、見るということ」で、生の声を聞けるのです。だから、合同夕事ということが修練の場では大切なこととしてあります。

 

■これからの学びに必要なこと

●司会 これからの教師養成には何が必要だとお考えですか。

●吉元 私は、座談という場に対する信頼を持っている教師、そして門信徒を育てたいと思っています。ただ、座談があると嫌だという理由で、研修の場から座談を外しているというようなことが起こっていると私は感じているんです。
だからこそ、座談という場を持ちながら、「お寺さんに来て初めてこんなことが話せた」という人たちに出会っていくということは大事なことじゃないかなと思います。座談というのは、実は感話の延長なんですよと。本当に自分のことを話していいんですよ、つらかったこと、苦しかったことを話していいんだよ、そういう場はお寺にあるんですよという教師を、これから育てていかなければいけない。お説教がうまくなるというのも、もちろん大事かもしれないけれど、そんなことを感じるんですね。
あとはもちろん、教師なんだから、聖典に対する信頼ですね。大事なことは、ちゃんと聖典に書いてあるんだという、そのことだと思う。だから九州大谷では基本的な聖教の学びを徹底してやりましょうと言っています。

●司会 道場長として大事にされていることは、どういうことでしょう。

●相馬 修練の場の中では、やっぱり人との出会い、関わり。そして、これは修練生だけでなくて修練スタッフも自分も含めてですが、場の信頼です。場の信頼というのは、目の前にいる人と認め合う。意見が違っても、それを認め、そこで言い合える関係。いわば座談です。
ただ、現在の修練の場では、なかなか場を信頼するまでに時間がかかるんですよ。1週間という修練の場では、5日間はまだお互いをけん制し合っていて、残り2日ぐらいから、ようやく自分というものと場を信頼し語りはじめる。昔に比べて、場の信頼を築くまでに要する時間がどんどん増えてきています。
でも、いったんその場が信頼されると、今まで誰にも言えなかった自分が抱えていることを一人ひとり語っていくんですよ。その中にはグリーフに関わることも、いっぱい出てきます。

●吉元 場が信頼できないから、いいことを言わなきゃと思うんですね。

●相馬 私もそう思います。

●吉元 法話も、いいことを言わなきゃというのは、結局その場が信頼できていないということだと思うんですね。その場に対する信頼ということと、グリーフということは何か関わるような気がします。

●尾角 座談は嫌だ、若者が自分のことを語るのは嫌だというのは、同じことが根っこにあるなと思っています。それは、自分の意思とは関係なく「話させられる」という感覚だと思うんです。

●相馬 そう思います。

●尾角 そこには、自分の主導権や選択肢はないという場のイメージがつくと思うんですよ。「何か話さなあかんのや、この場は」みたいな。そうなると、若者であろうがお年寄りであろうが嫌になりますよね。
私たちがグリーフケアで本当に大切にしているのは、主導権は遺族にあるということです。場を開く人ではなくて、場に集う人に主導権がある。話したくないことは話さなくてもいいし、話したいことだけ、ここに置いていったらいいんだよと。
あとは、話したくなるようなちゃんとした導入ですよね。ここの場は安全だ、安心だということを、どうやって感じてもらうのかということ。それは、場を開いていく最初の一声を上げる時の、声のトーンであったり、まなざしであったり。そういう場があれば、たとえ短い時間、たった1時間半でも、人は心を開くことがある。
それは、やっぱり、この目の前にいる人は真剣に私に向き合ってくれているという感覚があるかどうかなんですよね。
「お寺で、いきなり遺族が集って分かち合う場なんかつくれないです」と言うお坊さんたちに私がよく提案しているのは、まず、グリーフケアという言葉も使わず、「大切な人を亡くすということ」というタイトルのお話し会や、講演の場を開いてくださいと。そして、座談と銘打ってもいいし、銘打たなくてもいいから、とにかく話を聴いた最後に、例えば3人1組で、感じたこと、気づいたことをちょっと話してくださいと言うと、それぞれに話をされます。みんなしたい話は持っているのです。

●吉元 そう思います。

●尾角 一気に変化をするのは怖いことです。でも、こういうちょっとした場づくりから始まって、人は「あ、話してもいいな」とか、話して受けとめてもらえる体験を積み重ねていくと、やっぱりお寺で、こういう場を開いていくことは大事だねという認識が深まっていくのかなと。
これまで、そうした分かち合う場を開いてこなかったお寺さんが、いきなりやろうとするとご門徒さんもびっくりしますよね。何かいきなり始まったよと。だから、やはり変化というのはちょっとずつ起こしていくというか、変化が生じるような動きをとっていくことが必要なんだろうなと。
未来というものも今に続くグラデーションじゃないですか。明日も未来だし、10年後も未来。そういう視点で考えた時に、10年後、50年後のお坊さんを考えることも大事だし、明日の僧侶を育てる現場で、この今ある、1時間の授業で何ができるかを考える。その積み重ねの上にあるのが、先にある未来だと思うので、一気に変化させようというのは、やっぱり危ういと思いますね。
だから、修練という場に向けての日々の教育の場で、自分のことを話したり、伝える機会をどう持つのか。1人1分でいいから、それぞれの今の気持ちを共有してから授業を始めましょうとか、今日の授業はどうだったか、自分が感じたことを1分話して共有してから終わろうとか、そうしたことを積み重ねていくと、本当にそれだけでも変わっていくんです。
いきなり10分とか30分、自分を話せと言われても無理だけど、まずは30秒でも1分でも、自分自身を観て、感じて、話すという体験を積み重ねていく。その末に、自分を人に伝えていって、聞いてもらうなのかなと。お2人のお話を聞いて、気づかせてもらいました。

 

■グリーフケアの学び

●司会 道場長は、金沢真宗学院で指導を務められていますが、尾角さんを招かれて、グリーフケアの学びを持たれたとお聞きしました。そこにそのような思いがあったのでしょうか。

●相馬 僧侶というのは、ご門徒さんが亡くなったという電話をいただいて枕経に行きます。そうではなくて、その前の段階、予期悲嘆といいますか、介護の中で、いのち終わっていくことに苦しんでいる人たちがいる。その現実に向き合ってほしい。だから、呼ばれたから行って何かするのではなくて、その前の段階から関わりを持つということが大事ではないでしょうか。
そのことを通した上で、お通夜や葬儀が終わった後、七日参りでもいいし、一周忌でもいい、自分が関わった人の言葉を家族の方に伝えていく。
自分たちが僧侶となって、それも教師資格を持って住職を名告る時に一番要になるのは、その一歩。自分と他者とのつながりの中で、どうやってその一歩を踏み出していけるのか。それを、どうしても金沢真宗学院の中で取り組んでいきたいと思って、尾角さんに連絡を取ったということがあります。

●司会 実際、行かれてどうでしたか。

●尾角 今の話をお聞きして、金沢真宗学院での1泊研修会の時間を思い出しました。金沢では、葬儀をテーマに皆さんに対話をしていただきました。「遺族にとって最高の葬儀はどんなものだと思いますか」ということを考えてもらいました。問いそのものが、問い直す意味のあるもので、そもそも「最高の葬儀」なんかあるのかみたいなことも、みんなで考えてくれました。
その中で、亡くなる前からの関係づくりが大切だということが、あらゆるグループから出てきました。それは、別に葬儀のためだけではなくて、お寺というものの存在意義であったり、一体、自分たちが何のために僧侶であるのかということを感じていくためにも必要なことのはずなんですよね。
でも、葬式仏教と揶揄されるような世の中になっている中で、忘れられていたものが思い起こされたかのように、その場にいたみんなから、亡くなる前から関係をつくっていけば、亡くなった時にその人のことを僕たちは語れる、そして遺族と共有できる、と。それは遺族にとって、葬儀から始まって、その先もずっと続いていく大事なことなんじゃないかということが共通して、対話の中から出てきたんですよね。
グリーフケアの視点で、点ではなくプロセスが大事というのは本当にそうで、このことを、みんなで対話して深めました。遺族にとって最高の葬儀というテーマは、あくまで考えるとっかかりで、自分たちがそこに何ができるんだろう、何を求められているのかということを真剣に考える機会になっていました。 アンケートに、「僧侶という仕事に『やりがい』を感じていなかった自分がいたが、少しでも自分のできることをさがしていこうと思った」と書いてあったんですね。すごくうれしくて。何のためにお坊さんになるのかとか、これから出会っていく人たちに何ができるのかということを、グリーフケアの学びをきっかけに考えているお坊さんがいるということに大きな希望を感じています。
教えを学ぶことは本当に尊いけれど、何のために教えを学ぶのか、何のために教師資格を取るのかの根っこを、グリーフケアの視点から考えた時に、対象者が明確なので、考えやすくなるということがあるのかなと思いました。

●吉元 教師の学びは、やっぱり聖典の学びだと思います。聖典で学んだこと、つまりお聖教の言葉を、どう法話するのか。それこそ場に対する信頼もないままに語ろうとしてしまうから、たぶん語りたくないし、語ったことも、何かとんちんかんなことになってしまうんだと思うんです。
葬儀の場で、喪主の方が、母は何年に生まれて、何歳の時に嫁いできてとか、人生を追っていくような挨拶をされることがありますね。
皆さん静かに聞いておられるでしょう。あの挨拶によって、亡くなられた方の人生をみんなで共有している。それ自体は法話ではないけれども、法話の入り口になると思うんですね。亡くなられる前からの関わりということをお聞きしていて思い起こしました。
だから僧侶も、いきなり『真宗聖典』の何頁ではなくて、亡くなられた方にはこういうことがあってと話している時に、たぶん皆さんは亡くなられた方のことをじっと聞いている。そういう雰囲気になると思うんです。その雰囲気の中で、自分が学んできたお聖教の言葉が一言出たら、それが法話になるんじゃないかなと。
だから、やっぱり場が先ですよね。こちらの頭の中でつくった僧侶の立場の話ではなくてね。

 

金沢真宗学院の一泊研修会での様子(写真)  金沢真宗学院の1泊研修会での様子

■誠実に向き合う姿勢

●尾角 若いお坊さんの相談で、本当に熱心に関係性を築こうとしていくと、病気になった時に病院に呼ばれる。でも、その人にどう声をかけていいか分からないと、いきなりなるわけです。元気な時に関わっているうちは、しゃべれていたんだけど、その人が死を前にした時、自分はどうしたらいいのかという相談はよく受けるんです。
でも、それは本当にグリーフケアと全く一緒で、目の前の人をきちんと見て、その人の声、言葉、姿を聴いていけば、言葉は出てくると思うんです。それでも出てこないなら、その出てこないなりの誠実さがあると思うんです。変な実感のない言葉を出すよりは、黙ってじっと聞いている時のほうが大事に向き合っていることが伝わるかもしれないですよね。
本当に大切なのは、目の前の人に丁寧に向き合うこと。死が怖いとか、直視できないとか、いろんな心配があるのなら、その時に、今自分にできることは、仏さまの教えをお伝えすることかもしれないし、ただ聴くことかもしれない。今、何を望まれていますかと聞いてもいいんです。

今、特に病院や介護の臨床現場に出て行く宗教者を育てる資格がいくつかできていますが、基本は相手が求めない限り教えについては話してはいけないという前提があります。
でも、資格がなくても、関係性を築いていけば、お坊さんが入院されたご門徒さんを訪ねて、お話をしてもいいですよね。その時に教えの話をするか、しないかというのは、相手との対話の中で気づいていくなり、聴いていくなりしていけばいいんだろうなと思うんです。みんなとても、身構えるので。相手をよく観ること、感じること、そして対話を重ねること。ノウハウではなくて。

●相馬 今尾角さんが言われたとおり対話なんです。対話というのが一番難しいです。日常会話ならいくらでもできますが、対話というのは、まさに相手の言葉を聴き続けなければ。ところが私たちは途中でそれを遮るんです。分かったつもりになって最後まで聞けない。「ああ、それはね」とか言って。
だから、その時は、やっぱり自分の態度を素直にごめんなさいと言うべきだと思うんです。言わんとしたことを聴けなかったと、まず謝って、もういち度、お願いできませんかと相手を敬っていく関係性の中で初めて対話ができるのではないかと。私たちは対話と言っているけど、対話になっていないように思えます。

●尾角 相馬さんは実際に謝ったことがあるんですか。

●相馬 あります。

●尾角 そうしたら、どういうふうに相手の方は。

●相馬 えっと驚いて、不快な顔をされましたが、あらためてきちんと話してくれました。
これは私事になるんですけども、もう一周忌を終わった門徒さんで、生前は仕事が一番大事だと言っていた人なんです。
その方は、勤務先へ向かう途中に激痛に見舞われて、大きな病院に入ったら、もういのちはいくばくもありませんと突きつけられた。そしたら、どうしても住職に会いたいと言っているから来てくれないかと、お連れ合いの方から電話がかかってきたのです。
病室に入った瞬間に「住職、すい臓がんの末期と言われてしまいました」と。
そう言われて、あらためて自分の人生とは一体何だったんだろうかと思って、ノートに自分のこれまでの人生をひと文字ひと文字書いたと。楽しかったことや、うれしかったことがいっぱいあったはずなのに、いざペンを持って書き始めると、苦い思いと苦しい思いばかりが出てくる。
ノートを手渡されて、これを読んでくれと。そして、私のほうを見ながら、こう言われました。

「私は苦しい思いをするために生まれてきたんでしょうか。どうか教えてください」と。

突然言われた時、何を言っていいのか分からない。正直言って逃げ帰りたかったです。
でも、ずっと顔を見ているし、何か言わなきゃという強迫観念みたいなものが出てくる。とっさに出た言葉が

「苦い思いや苦しい思いの1つ1つが、あなたの尊い人生でなかったですか」と。

こう言った瞬間に、今まで私の顔を見ていた彼は、窓の外を見て、ずっと沈黙なんです。その間、こんなことを言わなきゃよかったとか、この言葉でよかったんだろうか、もっと別の言い方があったんではないだろうかとか、いろんな思いがめぐりました。
どれだけ経ったか分かりませんが、窓を向きながら言われた言葉が、「そのとおりですよね」と、そのひと言だった。これが、その方との最後のやり取りでした。

正解はないんでしょうが、本当に相手にどう伝わったんだろうか。顔は外を向いているから、表情も分からない。今でもそのことがずっと自分の中にあります。

●尾角 ひとつお伺いしたいのは、その方は、どうしてご住職に来てほしいと思われたのでしょうか。

●相馬 やっぱり、何か聞きたいことがあったんだろうなと思っています。

●尾角 お坊さんから「どうしたら相談に乗りたいと思ってもらえるような僧侶になれるんですか」という質問を受けるんですが、今のお話を聞いていて、相馬さんにとても聞いてみたいと思いました。どうしたら、そんなふうに頼ってもらえるお坊さんになれるんだろうかと。

●相馬 それは私だけの力ではないんです。当然、前住職である父親から引き継いできた関係性の歴史です。
そして、そういう中で、おうちへ行って、お茶を飲み交わしながら、いろんな話をする中で、お酒を飲み交わす仲になっていった。
それは、寺というものを信頼したというよりも僧侶、人間として信頼してくれているからじゃないですか。この人なら、何でも言っていいんだということだと言えます。

●尾角 私の場合は、兄を亡くした時、母を亡くして10年経っていたので、様々な活動を通じて、お坊さんの友人が何人かいたんですね。その中でも、よく自死・自殺に関わる活動に取り組んでいるお坊さんがいて、グリーフケアのことも勉強しているので、よくそういう話もしていたんですね。
兄かもしれない人が亡くなっていて発見されたという一報が警察から入った時に、一番先にそのお坊さんの顔が浮かびました。本当に泣きながら、そのお坊さんに電話して、兄の本人確認がとれた後に、遺体を引き取りにいくことや、その後のことを相談しました。
死後2週間近く経っていたため、遺体の状態がよくなく、すぐ火葬に出すことになりました。その火葬場に一緒に行って、炉の前でお経をあげてくれて。それからお寺に遺骨をもってお参りし、私と兄の親友、2人のために法要をしてくれたんです。
その法要が終わった後に「お兄さんは苦しんでいないと僕は思う」と。その日までにも「浄土にいるから大丈夫」と2度、伝えてくれていましたが、私の心には全く響かなくて。
もし倒れて誰も助けを呼べなかった状態で亡くなっていったとしたら、兄はどれだけ寂しかったんだろうか。1人ですごく苦しかったんじゃないかって、ずっと思っている中、どれだけ浄土と言われても、全く納得いかないと言って、2回は「信じられないよ」という話をしたんです。

前後しますが、火葬場に行った後に、「もう、光美さんには届かないかもしれないけど、僕は信じているんだ」ということを言ってくれたんです。「僕は、お兄さんが浄土にいることを信じているし、そこで苦しまずに光美さんの幸せを願っているんだよ」と。
でも、その「光美さんには、もう届かないかもしれないけれども」という思いが、私に届いたんです。その誠実さが。「これは届くだろう」と思って伝えているんじゃなくて、「もう届かないかもしれないけれども、僕は信じている」という、自分の信心から誠実に伝えてくれたことは、やっぱり、すごくありがたかったです。

●司会 僧侶の誠実に向き合う姿勢、在り方ですね。

●尾角 全く会ったことのないお坊さんに、例えば、いきなり「浄土」について話されて、届くかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。都会のお寺さんが今、困っているのは、やっぱり全然ご縁のなかった方の葬儀をあげる時、どうしたらいいのかということで困っているわけです。
そういう時に大切なのは、法名を付ける時から丁寧に死者を知ろうと言葉を聴いていき、どんな方だったか知ろうとしていくことです。その視線から信頼関係を築いていって葬儀につながっていくと、全然違うので。たとえこれまでの関係がうすくても電話で連絡があった時から、あるいは打ち合わせの時から関係性はもう築けるんですよということをお伝えしています。だから、都会だからと諦めてほしくない。
本当に短い時間でも、この人は真剣に聞いてくれたなと思うと遺族はお坊さんを信頼するんです。逆に言えば、短い時間で信頼を失う可能性もあるということです。遺族から「僧侶を替えられますか」みたいな質問も来ます。葬儀の場で棺のかげにかくれてケータイを見ていて、すごく嫌な思いをしたとか、それこそ名前を間違えられたとか、ちょっとのことで信頼を失い得ると思うんです。

●相馬 これからの教師ということの中で、やっぱりその人のいのち、人生、そのことに真向きになって、真摯に誠実に向き合う姿勢が一番大事ではないでしょうか。

●吉元 尾角さんがお坊さんの友人にご連絡されたというのは、意識しているかしていないかは別として、やっぱり、その友人の中に誠実に向き合う姿勢を感じられたというところはあると思うんですが。

●尾角 そうですね。誠実に向き合ってくれるだろうなという想定がなければ一大事に連絡しないですよね。
でも、その誠実に向き合ってくれているお坊さんが、2度言ってくれても、浄土にいると信じられないとなるということは、やっぱり関係性を諦めない力が必要だと思います。
信頼関係ができていても、そうなり得るので、「あなたの言っていることは信じられない」と言われても、諦めずに粘り強く関係を築き続け、自分の本当に信じていることを伝え続ける。諦めないでほしいと願っています。
結構驚くのは、もうお寺や僧侶が世の中で期待されていないと思ってきたお坊さんたちが、このグリーフケアの話をすると、お坊さんって、まだまだ期待されているんだとか、まだまだお寺にできることがあるんだと勇気づけられていることです。これからお寺は必要なくなると、みんな思ってしまっているみたいで。

●相馬 そうですね。だから本当に私たちの日常の仏事、これが一番大切なところです。

●吉元・尾角 そうですね。

●相馬 七日七日、四十九日、百ヵ日と、その場でこちらが話をするのではなく、聞き続けることが大切です。

●尾角 中陰も縮小化されていると言われていますけど、本当にやる気のあるお坊さんたちが何をしているかというと、遺族に提案をしているんです。
遺族にとってどんな意味があるかをちゃんと伝えて、もういち度、弔いを丁寧に行い、死者を丁寧に共有していく。この地域では枕経がなかったけれど枕経をやろうと言って始めたりと、提案していくんです。そうすると、自分には必要だなと思う遺族にとっては選択肢が生まれる。
もうこの地域は儀礼や儀式が縮小しているから無理だなと諦めたら、そこで最後と私は思うので。減っていく一方だし、縮小していく一方だけれど、今ここで本当にもういち度ちゃんと伝えていく。これは何のために行うのかと。

●吉元 何のためにということですね。葬儀というのを、教師養成の場では、葬儀式としてマニュアル的に学ぶわけですが、それが実は、死と喪失に向き合っていくプロセスなんですよという前提の上に葬儀、葬儀式ということを学んでいくことが大事だと思いますね。

■失敗できる学びの大切さ

●司会 ややもすると、私たちの学びは、僧侶の中で自己完結していて、大切な人を亡くした遺族が、どんなことに困っていて、何が求められているのかということを見失っているところがあるのではないか。そこを転じて、きちっと対話していく関係性ができた時、法事の意味も、教えを聞いていくという関係性も変わってくると思うのですが、いかがでしょうか。

●相馬 なるほど。自分たちの仏教の学びが、何か完結してしまっているわけですね。そこに何か、自分が想定していない人と出会っていくとか、少なくともそういうことを知らなければいけない。そのために、どういうカリキュラムが考えられるのか。
各教師養成校で、いろいろな学びがありますけど、4年間学んだからいいという話ではないと思っています。必ず未完成で卒業していくと思うんですよ。未完成で卒業していくけれども、少なくとも担保しなければいけないのは、いつでもこの聖典に戻れるとか、法話ができなくても、やらなくちゃいけないんだという気持ちを持つとか、そういうところは大事だと思うんですね。

●吉元 私は、学校で学ぶ教師課程の中で、いっぱい失敗したほうがいいと思っているんです。その上で、もう1回、出発点に戻れるという、その場の確保というか、その確かめ、安心感。それが必要なんじゃないかなというふうに思うんですが、相馬さんはどうですか。

●相馬 やっぱり法話というのは、いきなりできるものではないし、自分もそうでした。最初、話した時は、「ごえんさん、あんた何言うとるんや、全然分からん」と言われましたから。
やっぱり、そういうことを繰り返し繰り返ししていくということです。学校で学んだ言葉をいくら並べ立てても、それは数回使えば、もう後は使えなくなります。ゼロになった時、もう1回学びが始まっていくのです。
その時に、自分と関わった現実に生きている人の言葉、その人の姿を通して、また教えの言葉にふれて、そこで語っていけるのでしょう。いきなり親鸞聖人の教えを語るのではなくて、この人たちの本当に求めているものは何なのか、そこに気づいていく。その眼を自分たちが、失敗や経験を通しながら学んでいくということもあります。
また、住職になる方は、住職の姿でもいいと思うんです。自分に一番近い住職、あるいは組内の住職が、どのように日々の生活の中で法務をしているのか。そして、自分の悩みを相談しに行くことも大事なことじゃないでしょうか。繰り返し繰り返し、足を運んでいく。しかし、今はそういう場がなくなっています。また、人を訪ねて聞くことに抵抗を感じていると言えます。聞きにくいのです。

●吉元 そうなんですよ。そういう場がないから、教師課程の中でやらなければいけないのではないかということを切実に感じています。

●相馬 安心して失敗してもらえるカリキュラム。

吉元 そうですね。

●尾角 ロールプレイをやると、みんなとてもきつかったと言うけど、ここで失敗できておいてよかったと言うんですよ。研修から時を経て、まさに同じようなシナリオのケースに遭いましたというお坊さんもいます。全く同じ状況はそんなにないかもしれないのですが、でも、あの時、あの感覚、と思い出せる経験があるかどうか。失敗していれば、それだけ学びがあるわけですよね。失敗からの学びを糧にできることを、お坊さんになる前に経験しておけるといいだろうなと。

私は最初、グリーフケアの学びは現場を持っているお坊さんたちの学びとして大切だと思ったのですが、若いお坊さんたちも講座に来るんですね。
実際、学びに来てくれているお坊さんに、なぜ学びに来たんですかとたずねると、ご住職になられて3、4年経つ方ですが、「住職として最初の葬儀で、赤ちゃんを亡くしたご遺族と出会いました。そのお母さんに、僕は何も言えなかった。あの無力感から、ここに来ているんです」と言ってくださった方がいました。
その方は教師資格を取ってすぐにそういう現場だったみたいなんですね。だから、「現場に出てから学べばいい」ということでは、やっぱり遅いと思うようになりました。早く学べば学ぶほど、少しだけ自分の足元を踏み固めて、それでも完成することはないけれども、足をしっかり立てて向き合えるのかなと、それは思いました。

●相馬 現実に生きている人と出会っていけるということが、まず基本的にないといけないと思います。それぞれの地域で、お寺という存在があって、そこに関わる門徒さんがいます。門徒さんの生活の中で出会っていくということです。
先日、体験したロールプレイは本当によかったです。特に観察者の言葉からいろんなことを教えられました。ああ、自分は僧侶の立場でこんなことをやっていたんだなと、自分の振り返りになりました。

■未来への希望

対談の様子

●司会 最後にお1人ずつ、未来への希望をひと言ずつお願いします。

●吉元 尾角さんが最初におっしゃった、失うということに実は力があるんだという、それは学生の段階では、なかなか見えないと思うんで
すね。
見えないと思うけれども、カリキュラムにするということは、どういうことを課題にしているかということなので、それは、やっぱり老病死、特に死ということについて私たちがどう向き合っていけるのかという課題だと思います。
それこそグリーフはプロセスとおっしゃったことが、私の中に非常に残っているんです。仏教にはそのプロセスをずっとやってきた伝統があるじゃないかと。その伝統を私たちは受け継いで、しかも葬式仏教とか形骸化とか言われるけれども、本当に中身を持った葬儀をお勤めしていくという責任が僕たちにはあるんだよ、それをやっていきましょうと。
卒業生は、どうしても教学ということに自信が持てないです。片や卒業したら声明を頑張ってやりますという学生はけっこういるんです。それはそれで、もちろん尊いことだけど、その声明が、実はグリーフということにつながっているということ。それから、やっぱり法話、つまり自分がどう表現していくかということにつながっていく。研修会で勉強するというと、『論註』や『観経疏』など、どんどん積み重ねはできるけど、でも、それはあくまでも門徒さんにどう伝えていくかということがあっての教学なんだということを大切にしていきたいと思います。

やっぱり儀式と教学。儀式執行と教法宣布が教師の原点です。この原点に帰りつつも、そのことをカリキュラムとして、どうやって立てていくかということを九州大谷短期大学も考えているところです。私の中では今、あらためて、グリーフと聖教ということが課題になりました。

●相馬 冒頭に、お2人の姉妹がたどたどしい「正信偈」をお勤めしたと申しました。でも実は、私たちも「正信偈」に出会う最初は、悲しみの時ではないでしょうか。
悲しみというものに出会った時、「正信偈」のひと文字ひと文字が、実は私たちの人間の在りようを、きちっと押さえている。それを声に出して、まさに私たちも教えを言葉として読んでいく。そこが一番の基本ではないかと言えます。だから聖教は一番大事だと思います。
聖教は、単なる聖教でなくて、そこに声を聞いていく。それは教えの言葉であると同時に、亡き人を思い出しながら、その亡き人を敬っていく。その声を自分で確かめていける。そういう場の中で、もういち度、自分は人として生まれて、こうやって生きているということを、亡くなった人を通して確認していける。そういうことを大事にしていきたいです。

●吉元 そうですね。「正信偈」をお勤めするというのは傾聴と共感じゃないかなと。共に声を聞いていくということがあると思うんですね。

●相馬 修練生の中で、義理のお父さんを亡くした方がおられて、修練に臨んできた時に、「正信偈」の
「聞信如来弘誓願」、ここで必ず涙を流されていました。修練の日程が終わった後に、どうしてここでいつも泣くのですかとたずねたら、義理の父がまさに「聞くことが大事だ、聞くことが大事だ」と教えてくれていた。
そこを読むと、お父さんの「聞くことが大切なんや」という言葉として思い出してくるから、どうしてもこの言葉に接すると涙が出てくるんですと言われました。
そこに、亡くなった方が生きています。死は終わりでなくて、もういっぺん出会い直していける、2度目の出会いといいますか、そこが本当の出会いになっていくのではないでしょうか。それが生きる力になっていき、支えになって、意欲になっていくということを、修練生から教えられました。

●司会 尾角さんはいかがでしょうか。

●尾角 亡き人を生かし続けられるのが、お寺という存在だと思います。お坊さんが伴走者になっていけるということを本当に信じられるような未来を、私は希望として描いています。
簡素化していく中において、失われていくものがあまりに大きい。死者が本当に死んでしまう。そこに、いのちは生き続けているということを感じられるように。
それは遺族だけじゃなくて、僧侶だって大事な人を亡くしていきます。本当に亡き人のいのちを感じていけるような歩みを共にできるようなお坊さんになっていってほしいなと願っています。
ただ、未来への不安はありません。今回、座談の準備をしていて、自分が未来を全然憂いていないということに気がついたんです。多くの人が憂いているじゃないですか。お坊さんはもう期待されていないと。でも、とても若いお坊さんたちもたくさん勉強しにくるし。
私はこの頃、仏教界の「希望の最先端」に、いつもいさせてもらっているなと感じています。想いのあるお坊さんにばかり出会うからか、未来は明るいなと。だから、私が希望をお坊さんに申すのではなく、今ある希望を大事に、共に歩みたいなと想います。

●司会 本日はありがとうございました。

(終了)

 

■対談者プロフィール

相馬  豊
1957年生まれ。金沢教区道因寺住職。金沢真宗学院指導。2017年より修練道場長。
吉元 信暁
1969年生まれ。九州大谷短期大学教授・仏教学科長。
尾角 光美
1983年生まれ。一般社団法人リヴオン代表理事。あしなが育英会で遺児たちのグリーフケアに携わり、2006年から全国の自治体、学校、寺院などで講演や研修を行う。2009年、リヴオンを立ち上げ、死別の支えが当たり前にある社会を目指して精力的に活動中。著書に『なくしたものとつながる生き方』(サンマーク出版)など。

■登場したグリーフケアの講座の紹介記事

❤「グリーフシェアリング小松」の取り組み
「グリーフケア特集④仏教のなかのグリーフサポート【前編】-講演抄録掲載-」(2015年8月14日記事)
「グリーフケア特集④仏教のなかのグリーフサポート【後編】」(2015年8月15日記事)
❤名古屋教区第5組での取り組み
「推進員養成講座で「いのちの学校」-名古屋教区第5組-」(2018年7月24日記事)
横浜別院「グリーフケアの基礎を学ぶ学習会」のレポート