待たれている
(光川 眞翔 教学研究所助手)

死の彼方の世界こそ、死せし母や子のまつ世界であり、やがてわが身のかえる世界でもある。それは、墓の前に掌をあわせる身に感じられてある世界であって、理知の分別によって知られる世界ではない。(『眞宗読本 正親含英文集1』昭和五十六年、法蔵館、一七五頁)

 
今年のお盆も、自坊の納骨堂で法務の手伝いをする機会を得た。お参りの方々は仏花とお供物をもって、「暑いね」と言いながら仏壇に向かい、手を合わせ、亡き人に想いをはせる。
 
お参りの方のなかには、手を合わせ、目の前に亡き人がいるかのように語りかける方がいる。今年は昨年に比べて体調が少し悪いとか、孫がどれぐらい成長したとか、あるいは、全然お参りに来なくてごめんねと謝っている方もいた。「また来るね」。そんな言葉を残して帰っていく人の姿に、それぞれのお盆があることをあらためて思い知らされた。
 
恥ずかしい事だが、かつて私は、そのような方々を見ては内心、「話しかけても応えがかえってくるわけでもないのに……」と感じていた。しかし、亡き人に話かける姿やその言葉に度々ふれるうちに、理知分別で考えている自分の冷たさに思い至った。
 
納骨堂であれお墓であれ、声をかけずにおれない人がいる。「今日は暑いね」とお墓に水をかけ、「ほら涼しくなったね」と語る人の背中に、言い知れぬ悲しみのなかで亡き人と向き合ってきたあゆみを想わせられる。柄杓一杯の水に、亡き人を感ずる世界がある。
 
お骨が納められているお墓の前で手を合わせ、人知れず語りかける素朴な感情において、今年のお盆も亡き人と出遇い直し、自分の現在を見つめる機縁をいただく。そして「私もいずれ……」と期する世界に眼を開かせてもらうのであろう。
 
親鸞聖人が、晩年のお手紙のなかで次の言葉を残している。
 

この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。(『末灯鈔』聖典六〇七頁)

 
浄土で待っている人がいる。待ち人がいればこそ、そこまでの足取りが大事になる。道中ではあんなことがあった、こんなこともあったと土産話を持って行きたくなる。「亡き人が浄土で待っている」と頷いた時から、往生浄土のあゆみが始まる。教えのなかに、どのような日暮らしをさせていただくのか。その一歩(一日)の大切さを教えられる。
 
日々、世事に翻弄され、せわしなく過ごす私は、亡き人から、どうか聞法の歩みを大切にと願い、待たれている。
 
(『ともしび』2015年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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