真宗の学び
(花山 孝介 教学研究所嘱託研究員)

大谷大学に入学して、初めて真宗の教えを学びだして三十年ほどになる。これまでに、多くの先生方の指導をいただくと共に、多くの人々に支えられながら何とか今日まで真宗の教えを学び続けてこれたように思う。しかし、自らの学びの方向性、態度が果たして真宗の学びになっているのかという課題を最近改めて感じている。
 
例えば、私自身、自坊での教化をはじめ、本山・教区の教学教化という課題に関わる役をお受けしている。現代社会が抱える課題や、お寺が抱える現状を受け止めながら、これからどのようにして親鸞聖人の教えを伝えていったらいいのかということを関係者と共に試行錯誤しながら模索している。教化の厳しい現状を踏まえながら、「いかにして充実した教化ができるか」「それを実施するためにはどのような施策を打ち出したらいいのか」ということが何度も議論されている。
 
しかし、その中に身を置きながらも、何かしっくりこないものを感じている。それは何かと考えた時、改めて大学時代に教えられた言葉を思い出した。それは、金子大榮先生の『真宗学序説』の中にある。
 

これからの真宗学というのは、親鸞聖人の著述を研究するのは真宗学でなくして、親鸞聖人の学び方を学ぶのが真宗学である。(『真宗学序説』文栄堂、三十頁)

 
という言葉である。この言葉は、当時何度も繰り返し教えられながら、全く身になっていなかったことが今更に気づかされた。それと、もう一つ改めて思い起こされるのが、『現代の聖典』が最初に公開された時に記されている訓覇信雄宗務総長の、
 

わたくしたちが、この現代の社会のなかに一人の人間として生きてゆくうえで、仏教はなにを教えるのか、どこで仏教は現実の問題とむすびつくのか、それが、家族のしあわせをねがい、日夜、生活のために努力していられる方々の率直な疑問であろうかと思います。しかし、その疑問にお答えするのには、人間のつたない言葉を幾万言つらねますよりも、端的に、念仏の教えを説きひらかれた経典そのものをお読みいただくことが第一なのであります。(『現代の聖典』第三版六頁)

 
という文章である。金子先生の「親鸞聖人の学び方を学ぶ」ということは、具体的には訓覇宗務総長が述べられる「端的に、念仏の教えを説きひらかれた経典そのもの」に直参するということではなかろうか。自らの学びの姿勢は、親鸞聖人が学ばれたような学びになっているのか。知らず知らずのうちに、自身の解釈に囚われて、それを根拠として判断してないか。私自身の学びの出発点が課題になっているということは、改めて教学教化に関わるものとして、経典や親鸞聖人の教えに向き合う自身の態度が厳しく問われていることを教えている。
 
(『ともしび』2016年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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