そこは底ではない
(名和 逹宣 教学研究所研究員)

真宗を学び始めてすぐに、自分の底が知れた、と思えるような体験をした。
 
ある先生の一言によって、自我にとらわれたあり様に気づかされ、自分はいかにせまい世界を生きているのかと思い知らされたのである。なぜだかとても嬉しい気分になったのを記憶している。そして一生涯、真宗の教えを聞き続け、この道を信頼して生きていこうと心に決めた。
 
井の中の蛙大海を知らず──というのは言いふるされた諺であるが、きっとこの蛙が知らないのは大海だけではないであろう。自分が閉じこもっている世界、さらには自分が何であるかについても無知であるにちがいない。私はまさに、仏法聴聞によって初めて井戸の底、そして自分の底を知ることができた、と舞い上がったのである。
 
ところが、現在に至る軌跡を振り返ってみると、一旦は底だと確信した地点が、実は底ではなかったと崩されるような事態に何度も遭遇している。それだけでなく、生涯聞き続けようと心に決めたことさえも、さほど固いものではなかったと、文字どおり「痛感」することがたびたびあった。
 
ここで想い起こされるのは、哲学者の西谷啓治が伝える、師の西田幾多郎と鈴木大拙との間で交わされた対話である。
 
何時だったか先生のお宅で大拙先生と一緒になったことがある。何かの話のうちに、大拙先生は、禅は要するにこういうもんだと言って、前の卓子をガタガタ動かされた。西田先生にはそれが余程面白かったのであろう。その後も、外の人々のいる席上で、「君も居たから知っているだろう」と私の方を顧みながら、「大拙が言ったことだが、禅は要するにこういうもんだ」といって、やはり卓子をガタガタ動かされた。そういうことが一度ならずあったように覚えている。そこに先生の絶対現実主義の哲学の出てくるところがある。(『西田幾多郎──その人と思想』、筑摩書房、一九八五年、二九~三〇頁)
 
ここで禅と言われるものは、決して特定の宗義にはとどまらず、仏教の真理と置き換えることもできよう。また、この中で「ガタガタ」という一語で表されるものについて、西谷の弟子・上田閑照は、大拙の「吾等の平常な平和な概念そだちの意識を、その根底からひっくりおこして見ないと、真実底に徹することが出来ないのである」という言葉をもって了解する(『思い出の小箱から──鈴木大拙のこと』、燈影舎、一九九七年、一〇五~一〇六頁参照)。われわれの日常意識で底と思い込んでいる場所は実のところ底ではなく、むしろそれが「ガタガタ」と崩され、ひっくり返らなければ、「真実底」を自覚することはできない、ということであろう。そして大拙は、そのような底が破られる事態を、真宗においては名号を聞く一念に見いだし、それは「人間の霊の底なき底から叫び出る悲願の声」を聞くことであると感得している(『浄土系思想論』、岩波文庫、三一四~三四八頁)。
 
真宗の教えと出会い、それに貫かれた生涯とは、悲願の声によって、「そこは底ではない」と何度も崩され続けることにほかならないであろう。だからやっぱり聞き続けるしかない。
 
(『ともしび』2017年1月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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