先学の姿
(都 真雄 教学研究所助手)
最近、大谷大学の第三代学長である佐々木月樵(一八七五~一九二六)師の生涯に触れる機会をいただき、先学の生涯に学ぶことの大切さを改めて感じさせていただいた。
佐々木師は、大谷大学において清沢満之(初代学長)師や南條文雄(第二代学長)師の思いを具体化させるべく心血を注ぎ尽力された方であるが、自身の仏教研究においても生命ある仏教研究を目指し、近代的な方法によって幅広い領域を自由に研究されている。
佐々木師は、当時の状況について「宗門が総力をあげて、真宗の教えというものを明らかにしていかなくてはならん時」(山田亮賢『佐々木月樵先生』法藏館、一九九二年、一二三頁)と述べており、そのなかで佐々木師は新たな仏教研究を求めていたのである。
そのような佐々木師の姿は、清沢師の「宗学の境界に於ては討究上充分の自由を与へ、決して束縛を加ふべきものに非ざるなり」(『清沢満之全集』第七巻、岩波書店、一一七頁)という言葉を思い出させるものであり、そこにも清沢師からの影響の一つがあるように思われた。というのも佐々木師は、青年の頃から清沢師に師事しており、長年にわたって清沢師より薫陶を受け、様々な影響を受けていることが窺われるからである。
また佐々木師は、志半ば五十一歳で逝去されるまで公私にわたって同朋を援助しており、当時の佐々木師について山田亮賢氏は次のように言っている。
まだまだ、いろいろ昔から異安心問題というか、そういうものがきつかったのです。若い先生で、宗学に対する新しい見解を述べられると、先輩から非難があったりした事があったのですが、(中略)実際に地方で大谷大学の先生に問題が起きたら自分で飛んで行って、そうしてその人に会って、「下手に伸びゆく者をおさえるような事をしてもらったら困る」ときつく言って後輩をかばう。そのかばうというのはただ情でかばうのではなしに、芽を摘んではいけない、人材を尊重して、伸びゆく人をおさえてはいけないという事を、身を挺しておっしゃられたそうです。(『佐々木月樵先生』、一二二~一二三頁)
この言葉は佐々木師の当時の姿を彷彿とさせるものであるが、それに加えて佐々木師は、学生の学費や海外留学の費用、教授の待遇などにも私費を投じている。
そのように佐々木師が、真宗の教えや宗門や同朋を尊重し、身を挺して奔走しているのを知り、私は心が温まるのを感じた。そのように行動してくださる方がいたからこそ、多くの人々も伸びることができたのだろうと思われた。そしてさらに脳裏に浮かんだのは、佐々木師だけではなく、その他の多くの同朋の方々も、佐々木師と同じように宗門や同朋を思い行動されていたということだった。そのように思ううちに、現代に生きる自分自身や自分がいる場も、先人のご苦労がなくてはありえず、先人から多大な恩恵を受けている、そのことを改めて実感することができた。
そしてそのように思うと同時に、どうしてそれほどまでに佐々木師は、真宗の教えや宗門や同朋を大切にすることができたのか、という問いが生じてきた。現在は、未だその問いが生れているだけであるが、これについては今後の課題として大切にしたい。
(『ともしび』2017年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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