『現代の聖典』に思う (花山 孝介 教学研究所嘱託研究員)

同朋会運動は、「宗門が仏道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他に明らかにする本務に、あまりにも怠慢」で「宗祖聖人の遺徳の上に安逸をむさぼって来た」事に対し、「厳粛な懺悔に基づく自己批判からの再出発」(「宗門各位に告ぐ(宗門白書)」『真宗』一九五六年四月号)した信仰運動である。その歩みにおいて真宗の教えに自身を学ぶテキストとして、『観経』序分を内容とする、教学研究所編『現代の聖典─観無量寿経序文─』(真宗大谷派宗務所出版部、一九六二年)が公開された。このテキストが公開されて五十数余年経つが、現在ではこれを通して学ぶということが減少していると聞く。そこには、様々な理由が言われている。   経典そのものをテキストにしているので、専門的な基礎がないと読めないという声や、時間に追われながら、経済的対価で物事を考えるような生活をしているので、すぐに答えが得られないことに対する拒否感があるとも聞く。更に、「めんどうくさい」という言葉が象徴するように、じっくり時間をかけて考えるということが敬遠されていることも理由として挙げられることもある。確かに、この様な理由があることも事実である。しかし、様々な理由が想定される中で、敢えて何故このテキストが公開されたのであろうか。   その事について、私は『現代の聖典』の「はじめに(初版のことば)」(『現代の聖典』第三版六頁)にある文章に示唆を受ける。  

わたくしたちが、この現代の社会のなかに一人の人間として生きてゆくうえで、仏教はなにを教えるのか、どこで仏教は現実の問題とむすびつくのか、それが、家族のしあわせをねがい、日夜、生活のために努力していられる方々の率直な疑問であろうかと思います。しかし、その疑問にお答えするのには、人間のつたない言葉を幾万言つらねますよりも、端的に、念仏の教えを説きひらかれた経典そのものをお読みいただくことが第一なのであります。

  私たちは日々の生活の中で、誰しもが幸せを求めて生きている。しかし現実は、お互いに傷つけ合ったり、憎しみ合うことを繰り返している。人として、不幸になることを望んでいる人は誰もいないであろう。にもかかわらず、毎日のように悲しい出来事を耳にするのが実際である。   私たちが求める幸せとは、何を根拠にしているのか。考えてみれば、私たちは、自己関心の延長上に期待する理想をひたすら追い求めているだけではなかろうか。具体的には、便利さと快適さと合理的な生活の中で、自分だけの満足を求めているに過ぎないのではないだろうか。しかし、どれだけ人間の願望を延長しようとも、人間の思いの領域を出ることはない。  

「はじめに」で言われる、「人間のつたない言葉を幾万言つらねますよりも、端的に、念仏の教えを説きひらかれた経典そのものをお読みいただくことが第一」という一節は、真に依るべき根拠とは何かを示しているのであろう。それは仏説に対する自身の態度が問われていることと共に、人間が真に人間として幸せに生きることを教える経典を「仏陀の直説」として繰り返し繰り返し聞いていく以外にないことを教示しているのである。そこに、この『現代の聖典』が、世に公開された願いがあると思う。   (『ともしび』2019年1月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています) 「聞」のバックナンバーはこちら  

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