「人をそしる」
(藤原 智 教学研究所助手)
「そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず」(真宗聖典七七四頁)。これは蓮如の『御文』第一帖第十四通の冒頭の言葉である。こう語られる所には、当時真宗門流と、他者・他集団との間に様々な軋轢が出ていたのであろう。
蓮如は、この誡めのいわれとして龍樹菩薩の『大智度論』の次の言葉を示している。すなわち「自法愛染故 毀呰他人法 雖持戒行人 不免地獄苦(自らの法に愛染(あいぜん)するが故に、他人の法を毀呰(きし)するは、持戒の行人と雖(いえど)も、地獄の苦を免れず)」(同前)である。この言葉は、われわれが自分たちこそ正しいという思いを離れられないこと、そこから正当な批判ではなく他者を貶しめるような発言をしてしまうこと、それが地獄という苦の世界を生み出しているということを教えてくれる。他者との対話の大事さ、そしてその難しさは今も昔も変わらぬ人間の大きな課題である。
ところで、この『御文』を読むたびに、いつも思い出すことがある。私にとって非常に大事な先達である曽我量深のことである。その曽我の文章で問題なのが戦時下での発言である。当時には、現代からは実感できない時代の空気があるのだろう。けれども、やはりそのようになされるべきではない発言に触れ、暗澹たる気持ちになる。
日米開戦の半年後、昭和十七年五月の講話である。曽我は、西洋人や国内の知識人を批判しながら次のように語った。
(彼らは:筆者注)唯無闇に我が法尊しの論を主張する。「自法愛染故、毀訾[ママ]他人法、雖持戒人[ママ]、不免地獄苦」(『智度論』一)といふ御言葉があるが、自ら尊しと思うて居るものの実は毎日、不免地獄苦の中に起き臥してゐるので······(『曽我量深講義集』第五巻、弥生書房、二八頁)
言うまでもなく、ここに引かれた言葉は、『御文』に引かれた龍樹の言葉である。『御文』においては自省を促す言葉であったが、ここでの曽我は自省ではなく、他者批判として語っている。発言の内容もさることながら、問題の根幹に思うのは、このようなお聖教の言葉を用いる姿勢である。
この龍樹の言葉に曽我が言及する場面が、私の知る限りもう一度ある。敗戦後、ソ連(当時)との国境線を念頭に語られた昭和二十七年九月の講話「分水嶺の本願」である。
今まではこの小さい島国で「自法愛染故、毀呰他人法、雖持戒行人、不免地獄苦」(『智度論』)と地獄に堕ちていて極楽と思っておったのである。昔は仕方がない。しかし今日我々はその教を正しい親鸞、蓮如の教に帰して明らかにせねばならぬ。(『曽我量深選集』第十一巻、弥生書房、三〇九頁)
自分たちこそ正しい教えを聞いておらず、地獄の中にあってそれに気付いていなかった。曽我は自らの過去を痛切に省みて、戦前と全く異なる意味を、この龍樹の言葉に聞き取ろうとしている。
この曽我の聞法の姿勢の変化に大きな意義を思う。そして、私自身の今の聞法の在り様も問い直されてくることである。
(『ともしび』2019年12月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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