難信の法

 

教化するひと

 
自信教人信、自ら信じ人を教えて信ぜしむという善導の『往生礼讃』の言葉は、教化ということを考えるときの基本的ありかたを示すものとして、最も重視される言葉です。
 
『蓮如上人御一代記聞書』に、
 

教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。(『真宗聖典』八五七頁)
信心をよく決定して、ひとにもとらせよ(同前)

 
と説かれています。ここでの教化する人とは、必ずしも特定の人を指すわけではなく、たまたま縁あって教化をする立場にある人という意味なのでありましょう。要は、自身の信心の確立のうえに教化を考えるのが筋であるということです。
 
真宗大谷派宗憲の前文に「宗門運営の根幹として次のことを確認する」として「第一に、すべて宗門に属する者は、常に自信教人信の誠を尽くし、同朋社会の顕現に努める」と、宗門の基本精神が説かれています。基本精神の最初に自信教人信の誠を尽くすという言葉を挙げて、世に誓うとともに、宗門人の自覚を促しています。
 
自信教人信の自信の内容は、念仏成仏の一事であります。しかし、実際にはこの自信が決して容易なことではありません。
 
浄土・往生・念仏・信心・成仏など、真宗の最も基本的な教えの言葉が、法話の中で語られなくなったと言われて久しく経ちました。言葉がその本来のはたらきを失って死語と化してしまうのは、その言葉が力をもった言葉として生活の中で使われてこなかったという理由が、一番なのではないでしょうか。一九五六年に宮谷法含宗務総長が出した「宗門白書」の中の「宗門が仏道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他に明らかにする本務に、あまりにも怠慢であるからではないか」という反省の弁は、まさにそのことを指摘したものであると思われます。習俗化した寺檀関係の中で、僧侶はご門徒の忍耐と包容力に甘えてきたとさえ言いうるのではないかと思われます。
 
今、宗派を問わず僧侶の資質、法話力が問われています。そして法話に関してご門徒から、「伝える」と「伝わる」ということについて、問題提起がなされます。
 
それは、法話をする者が、自らの関心事と自分なりの学習成果にもとづいて伝えているが、一向に聴衆に伝わらないという現実であります。
 
現在の宗門には、真面目に学び伝えようとしている人は、けっして少なくありません。しかし、それでもなお「伝わらない」という指摘から、教化の在り方そのものについて考える必要があると思います。
 
それは、法話の技量を磨くというようなことではありません。それこそ、自信の確立なくして技量に走るありかたは、過去の布教の問題点として同朋会運動の中で反省されてきたものであります。
 
昔のお説教は、法語をあげて、その意味を説明しながら、たとえ話を織り交ぜて笑わせたり涙を誘ったりしながら凡夫の愚かさと如来の大悲の有難さについて語るというものでした。これらのことがそのまま問題であるわけではありません。むしろ、伝わることへの努力、聞く人への親切心は、今も見習うべきであると思います。
 
問題は、笑わせて泣かせて聞く人を引き付けることに専ら関心が行ってしまい、結局、ともすれば、話す方も聞く方も話題性で関心が止まってしまうところにあるのです。
 
以前、清沢満之に関する書籍で次のような話を目にしました。それは、他に対する教化のことで真剣に考えて眠れない夜を過ごす人は多くいるが、自分自身が救われないということで悩んで眠れぬ夜を過ごされたのは清沢先生が随一であるというものです。自信ということを考えるうえで、大切な指摘であると思います。そのうえで、教化という視点で考えるとき重要なことは、話す方も聞く方も法話を通して念仏の教えに育てられ、信心の眼を開くことであります。そして日常の生活が、折々に教えに照らされ問われ続けるということにあるのです。
 

難信の法

 
自信教人信が、自らの信心決定と「(信を)ひとにもとらせよ」という課題を示した言葉であることは確かでありますが、『大無量寿経』には念仏の法が難信の法であると説かれています。
 
『大無量寿経』流通分に、
 

如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞きて能く行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。(『真宗聖典』八十七頁)

 
と説かれています。
 
仏出世の時に出遇うことが得難いばかりでなく、お会いしたとしても自分を目覚めさせる仏として出遇うことが難いのであります。聞き難しということは、信心決定と「ひとにも(信を)とらせよ」ということが難中の難であることを語るものであります。
 
善導は、『観経四帖疏』「定善義」で、
 

もし人浄土の法門を説くを聞きて、聞きて即ち悲喜交わり流れ、身の毛いよだつことを為す者、まさに知るべし、此の人は過去に已にかつて此の法を修習して、今、重ねて聞くことを得て、即ち歓喜を生じ、正念に修行して、必ず生ずることを得るなり。(『真宗聖教全書』(一)、五〇七頁)

 
と『大経』の意を述べています。
 
個人的努力によって念仏の法を知りうるものではない、信心を獲得できるものでもないということです。善導の説かれる過去の因縁談は、教えとの出遇いの事実が現在の自分の努力や思いを超えていることを譬えたものでありましょう。
 
親鸞聖人は『教行信証』総序の文で「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と述べられます。「難中の難」ということは、事実としてまったく不可能なことを言っているわけではないのです。とは言え、人間の個人的努力をもってしては、まったく不可能なことではあるのです。つまり「如来の加威力に由る」「大悲広慧の力に因る」(『真宗聖典』二一一頁)、如来の回向に由らなければ、人間のなし得るところではないということであります。したがって、自信教人信ということは、第一に、どのようにして「聞き得る者」となるかという問題であるのです。
 

教化の課題としての自信教人信

 
教化の課題は、自信教人信が如来の回向に由るということが根底にあることを憶いつつ、出離生死の法である真宗の教えをどのようにして伝えようとするのかということであります。
 
蓮如上人の『御文』四帖目五通に、
 

今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるところの心中を、心底にのこさずして、当寺の御影前において、回心懴悔して、諸人の耳にこれをきかしむるように、毎日毎夜にかたるべし。これすなわち「謗法闡提回心皆往」(法事讃)の御釈にもあいかない、また、「自信教人信」(往生礼讃)の義にも相応すべきものなり。(『真宗聖典』八二〇頁)

 
と説かれています。「改悔の心」「わが身のあやまれるところの心中」という言葉が示すように、教化の基本的道程は、自分自身が道を外れ遠回りしてきた路を確かめながら、本願一実の直道を学び伝えるところにあるのではないでしょうか。道は易にして機(人間)が難であるということが、私たちにとって分かりにくく伝わりにくいところであります。伝わりにくい伝わらないことについて、伝えようとする者の意欲といっそうの研鑚が求められているということでありましょう。
 
四年後の二〇二三年は、立教開宗八百年の年に当たります。念仏の教えとの出遇いを真宗門徒の一人ひとりが静かに喜び、その喜びの輪が自信教人信の言葉の如く広がっていく、私たちにとっての始まりの年としたいものであります。
 

([教研だより(150)]『真宗』2019年1月号より)