方便法身ともうす御すがたをしめして
(『唯信鈔文意』、『真宗聖典』五五四頁)
今年、生誕百五十年を迎える鈴木大拙は、仏法のはたらきの不可思議さを表す「妙」を英訳するのに苦心していたが、ある日、偶然目にしたシェイクスピアの喜劇 As You Like It (邦題「お気に召すまま」)のなかの一句に目が止まり、「これだ」と頷いたという。
and most wonderful wonderful !
and yet again wonderful …
ワンダフル(wonderful)は、驚嘆(wonder)で満ち溢れていること(-ful)を意味する語である。それを何度繰り返しても、なお言い足りない(…)、──そのような世界こそが「妙」であると感得したのである。
三年余り前、二人目の娘が生まれる直前に、私の身にも「妙」な出来事が起こった。
ある朝、目が覚めると、齢三歳の長女から、不思議な言葉が投げかけられたのである。
──お父さん、仏さまの名前は南無阿弥陀仏っていうの、知ってる?
まだ寝ぼけていて頭が働かなかった私は、何のことやら事態が全くつかめなかった。しかし、それでも何とか「知ってるよ」と返事をすると、娘は続けて次のように言った。
──生まれてくる赤ちゃんにも、教えてあげないとね。
驚いた私は、隣の部屋にいた妻に事情をたずねた。どうやら、数日前に自坊へ帰った際、本堂でおばあちゃん(私の母)とお勤めをしたあとに、ご本尊を指して質問をしたようである。
──あの仏さまの名前は何て言うの?
それに対しておばあちゃんは、「南無阿弥陀仏と言うのよ」と答えたという。阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏であると。
それを聞いて、娘は合点がいった。「それでみんな、あの仏さまの方を向いて南無阿弥陀仏と言っているのか」と。しかしその一方で、疑問も生じた。「私はおばあちゃんから教えてもらったけど、生まれてくる赤ちゃんはそのことを知らない。どうしたらいいんだろう」。
そうして自分なりに考えを重ねて見いだしたのが、先の方法だったわけである。
色もなければ、かたちもない、人間の心も言葉もおよばない仏のさとり(法性法身)は、その一如よりかたちを現して、南無阿弥陀仏という名号(方便法身)として、私のもとに至り届いている。誰かに教えられなければ、私の口から念仏が称えられることはない。
頭ではわかっていたつもりの事実が、思いがけないかたちで、身をもって知らされた。
(教学研究所研究員・名和達宣)
[教研だより(165)]『真宗2020年4月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。