故郷は遠きにありて…
好間(すきま)応急仮設住宅「スマイルサロン」 佐藤裕子 >

 昨年の夏休み、私たち家族は東本願寺主催の保養ツアーに参加しました。保養先は岡山県にある「邑久(おく)光明園」です。ハンセン病の患者であったがために、強制隔離させられた方々が暮らす療養所です。国の政策のために故郷を追われ、静かにひっそりと暮らしている方々に、私は何かに惹かれるようにここを訪れました。外界とは一切遮断された世界に暮らす人々は、今まで何を考え、何を目的に生きてこられたのか、それを訪ねて、何かを見出したいと思いました。
 園では、私たちのためにたくさんの方々が、素敵な笑顔で出迎えてくれました。そんな明るい笑顔の中にはきっとたくさんの苦労と悲しみ、そして絶望の日々が隠されていたとは微塵も感じさせない、そんな笑顔でした。
 私の家は、東京電力福島原子力発電所から6キロほどのところにあり、あの爆発のために避難生活をしています。私たちは、すぐに帰れると安易に考え、ほとんどの物を持たずに故郷を後にしました。子どもたちも、まさかそのまま二度と帰れなくなるとは考えもしませんでした。
 故郷を離れて私はあらためて考えます。
 故郷とは何でしょうか。
 私が住んでいた福島県富岡町は、季節の花々が咲き誇り、鳥がさえずり、野山ではたくさんの木の実や山菜が採れる、そんなとてものどかで静かなところでした。お正月、お盆、お彼岸には親戚縁者が集まり、先祖の供養をし、新年を迎える喜びを皆で祝います。故郷とは、憩いの場であり、私のルーツであり、私の存在そのものでした。
邑久光明園で保養する子どもたち

 中国に「腸中車輪転ず」(『楽府歌辞』)という詩があります。故郷を追われた作者が苦しくてやりきれない気持ちを綴った詩です。この詩に私は自分自身を重ね、私はなぜここにいるのか、何のために生きているのか考えました。園の方々も故郷を離れたときは断腸の思いだったかと思います。身を隠すように離れ、自分の名前を変え、目には見えないが「感染者」という烙印を押され、別世界で生活をするということは、とても悲しく、辛いことでしょう。
 私も富岡を離れたときは「福島」から来たことを隠し、生活をしていました。でもそれが周りに知れたときは、まるで異物でも見るような視線になり、冷たい言葉を浴びせられました。
長島愛生園歴史館でハンセン病の歴史を学ぶ

 私は、今でも福島出身ということを隠す時があります。また悲しい思いをするような気がするからです。私が胸を張って「福島出身です」と言える日はいつ来るのでしょう。
 光明園最後の夜に夏祭りがあり、その中で子どもたちは舞台にあがり東本願寺の方々と「ふるさと」を歌いました。私はその歌を聴き、故郷を思い出し涙しました。そのとき、後ろに座っていた園の方が私の肩にそっと手を置き、「がんばって。私たちはいつまでも応援しているから」と声をかけてくれました。私はそのときの暖かい言葉を、手の温もりを一生忘れません。決して。「あなたには明日があるじゃないですか。未来もある。子どももある。それ以上何を望むのですか? 今はそれらを大事にしなさい。今、生きていることを大事にしなさい。そうすれば自ずと道は開けますよ」。私はこの言葉を胸に刻み、今後も生きていけたらと思います。
 

《ことば》
反天皇制でなければならんかね

< 京都教区 菱木政晴 >

 曽我野一美さんは、16歳のときに海軍航空隊に入り、そこでハンセン病を発症された。敗戦後の自宅療養で自然治癒されていたのだが、1947年から療養所に隔離され続けた。しかし、負けん気の曽我野さんは、予防法反対闘争や所内改善闘争の力強いリーダーとなっていった。また、軍人恩給支給資格者の取りまとめ役的な存在でもあった。
 予防法も廃止され、十分闘ってきた自負もあったので、当初は国賠訴訟に加わらなかった。しかし、被告・国の予防法体制正当化の答弁書を見て驚いた。「これは黙ってはおれん」。《曽我野、訴訟に立つ》の知らせで裁判闘争は一気に広がった。
 国賠訴訟の意義について書いた私の一文に「反天皇制」とあるのをご覧になったときのことである。曽我野さんが言われた。「私は感謝すべきは感謝する。闘うべきときは闘う。この裁判は反天皇制でなければならんかね」。「はい。私はそう思います」。静かに笑っておられた曽我野さんの様子が今思い起こされる。

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2013年7月号より